トール・ヘイエルダール
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漂流実験
1947年当時はポリネシアの島々の住人(ポリネシア人)の起源は謎とされており、ヘイエルダール自身も調査を行った。その結果、南米ペルーにある石の像とポリネシアにある石の像が類似していること、植物の呼び方が似ていることなどを踏まえ、ポリネシアの住人の起源は南米にあると論文で発表した。しかしこの説は学会からの反対にあった。当時の技術では船で行き来することなど不可能であるというのがその理由だった。
1947年、ヘイエルダールとそのチームは、南米のバルサ材およびその他の地元の材料を用い、インカ帝国時代の船を模したコンティキ号を建造し、ペルーからイースター島への航海に挑戦した。巨石文化がインカ帝国から海を渡ってイースター島に伝えられ、同島に残るモアイ像が作られたことを実証しようとしたのである。コンティキはインカ帝国の太陽神ビラコチャの別名で、いかだはインカ帝国を征服した当時のスペイン人たちが描いた図面を元に設計された。
コンティキ号は1947年4月28日に5人の仲間と1羽のオウムと共に出航し、曳航船によってフンボルト海流を越えた後は漂流しながらイースター島を目指した。一行は出航から97日目に、トゥアモトゥ諸島のプカプカ環礁を望見しポリネシアにたどり着いたが、出航102日目の1947年8月7日にトゥアモトゥ諸島のラロイア環礁でコンティキ号は座礁した。
ヘイエルダールは1948年に漂流航海の模様をまとめた著書『コン・ティキ号探検記』を発表。同書は62ヶ国語に翻訳され、2000万部以上の大ベストセラーとなった[2]。また、彼らの航海を描いた長編ドキュメンタリー映画『Kon-Tiki』は、1951年のアカデミー賞長編ドキュメンタリー映画賞を受賞している。
「漂流」には、当時(1940年代)の航法機器やボートなども使用していた。また、アマチュア無線によりノルウェーを含む世界各国との交信を行っていた(コンティキ号#概要)。食料に関しては、実験を名目にアメリカ軍から提供された保存食の他は海中から得た。ヘイエルダールは、「インディオの航海技術を立証するのが目的で、我々がインディオになる必要は無い」と述べていて、最初は保存食を用意して航海に臨むつもりだったようである。「筏のロープが波で擦り切れる」とか「バルサが水を吸って沈没するはず」など、航海前に出された否定的な意見を覆したことで評判を呼んだ。ただし、建造を急ぐため乾燥していないバルサを使ったのが偶然に吉と出て、乾燥したバルサを使っていれば、海水の吸収が早くて沈没していた可能性があるとヘイエルダールは認めている。
1964年には、南太平洋の探検の功績に対して、王立地理学会から金メダル(パトロンズ・メダル)を贈られた[3]。
- ^ のちにヘイエルダール自身は、自伝で冒険家として家から離れがちなことと、子供を育てる考えの違いが大きいと述べた。離婚の全責任は自ら自身が負うべきであると結論付けている。
- ^ 『コン・ティキ号探検記』、筑摩叢書版の訳者解説
- ^ “Medals and Awards, Gold Medal Recipients” (PDF). Royal Geographical Society. 2016年11月30日閲覧。
- ^ 葦船のような「脆弱なる船体を持った舟は、河川湖沼或いは静海以外では用いられよう筈がない」というのがそれまでの常識だった。西村眞次「葦船に關する研究」『人類學雜誌』第31巻第6号、日本人類学会、1916年、204-214頁、doi:10.1537/ase1911.31.204、ISSN 0003-5505、NAID 130003726166。
「正誤」『人類學雜誌』第31巻第9号、1916年、320-320頁、doi:10.1537/ase1911.31.9_320。 - ^ Heyerdahl, Thor (1972). The Ra Expeditions. p. 197
- ^ 再びパピルスの船で大西洋横断 ヘイエルダール氏『朝日新聞』1970年(昭和45年)5月16日夕刊 3版 10面
- ^ Ryne, Linn. [1]. Retrieved 13 January 2008.
- ^ 英雄、色を好む!『コン・ティキ』の冒険家の息子が語る父の素顔!
- ^ “Heyerdahl award”. Norges Rederiforbund. 2013年11月29日閲覧。
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