オスカー・フェルツマン オスカー・フェルツマンの概要

オスカー・フェルツマン

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/09/09 08:22 UTC 版)

ナビゲーションに移動 検索に移動
オスカー・ボリソヴィチ・フェルツマン
基本情報
生誕 (1921-02-18) 1921年2月18日
ウクライナ・ソビエト社会主義共和国オデッサ
出身地  ウクライナ
死没 (2013-02-03) 2013年2月3日(91歳没)
ロシア モスクワ
ジャンル クラシック音楽
活動期間 1940年代 - 2013年
公式サイト 公式サイト
ウラジーミル・プーチン大統領(左)とオスカー・フェルツマン(2001年)

日本語表記では名と姓がそれぞれ「オスカル」「フェリツマン」などと表記されることもある。

人物

ウクライナオデッサ出身。父は整形外科医だったがプロ並みのピアノの腕前を持っていた。オスカーも5歳からピアノとヴァイオリンを学んだ。6歳の時に早くもピアノ曲を作曲している。1939年モスクワ音楽院に入学し、ヴィッサリオン・シェバリーンに作曲を師事した。

独ソ戦が始まるとノヴォシビルスクに避難し、20歳でシベリア作曲家連盟の書記となった。この時期にはレニングラード・アレクサンドリンスキー劇場やベラルーシ・ユダヤ劇場のためにオーケストラ曲を提供している。また同時期に作曲したオペレッタ『青いスカーフ』はプラウダで批判された。

1945年モスクワに帰還した後は、数々のオペレッタを作曲する一方、クラシック音楽の手法を用いてサーカスのための音楽や子どものためのバラエティーショーの音楽も作曲している。1952年には『ヴァイオリン協奏曲』を作曲したが、それ以降作曲の中心は歌曲に移った。ダークダックスが歌い、日本ではロシア民謡として紹介された「すずらん」(ロシア語: Ландыши)はフェルツマンの歌曲分野での代表作である[1]

2013年2月3日、モスクワ市内の病院にて急性心不全により永眠[2]。91歳没。

参考文献

外部リンク


  1. ^ ソ連では、1959年の発表直後、広く愛唱されたが、後に当局より社会主義の精神に反する歌とされ、長い間、公の場で演奏されることがなくなった。
  2. ^ Author of Yury Gagarin's song Oscar Feltsman dies at 92 プラウダ 2013-2-4


「オスカー・フェルツマン」の続きの解説一覧



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「オスカー・フェルツマン」の関連用語

オスカー・フェルツマンのお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



オスカー・フェルツマンのページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアのオスカー・フェルツマン (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS