エルベ川
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/04/19 01:38 UTC 版)
歴史
かつてゲルマン系のアレマン人が原住地のスカンジナヴィア半島およびユトランド半島から南下して、エルベ川流域に在住していたが、3世紀ごろにローマ帝国に侵入するために、地形的に便利な西部ドイツのライン川の上・中流域に民族移住した。
また、スラヴ系(西スラヴ人)のソルブ人も先住民として在住していたが、次第にドイツ人と同化した。さらに北西ドイツ地域からザクセン人の一派も移住してきた[7]。
19世紀までは、エルベ川がヨーロッパの東西を隔てる、大きな境界線の一つであった。エルベ以東の代表的な国がプロイセン王国、オーストリア・ハンガリー帝国、ロシア帝国。一方以西の国はフランス、イギリスなどでエルベを挟んで、地域の実情が大きく異なっていた。代表的なのが農奴の存在であるが、西では近世初期に農奴の解消が終わったのに対して、東では、19世紀初頭から中ごろまで農奴が存在した(グーツヘルシャフト)。
第二次世界大戦当時の1945年4月には、東西からドイツに進軍していた、赤軍とアメリカ軍が、流域のトルガウで出会い、恒久平和を誓い合ったという「エルベの誓い」の舞台となった。
2004年、ドレスデン近郊の流域において優れた文化的景観が評価され、「ドレスデン・エルベ渓谷」として世界遺産に登録されたが、2009年6月25日、景観を損ねる橋の建設を理由に、世界遺産リストから削除された。
流域の都市
支流
下流より記載
災害
2002年にエルベ流域の各地で増水が発生した。プラハ、ドレスデンの大部分が浸水する被害となったこの大洪水の原因は、旧東欧の灌漑インフラの老朽化が原因の一つと言われており、ドイツ、チェコ両政府は情報交換、灌漑インフラの充実、監視体制の強化など協力し合って、洪水の再発防止に努めている。
- ^ “Wattenmeer, Elbe-Weser-Dreieck | Ramsar Sites Information Service”. rsis.ramsar.org (1976年2月26日). 2023年2月17日閲覧。
- ^ a b “Flusslandschaft Elbe Biosphere Reserve, Germany” (英語). UNESCO (2018年10月26日). 2023年2月17日閲覧。
- ^ a b “Aland-Elbe-Niederung und Elbaue Jerichow | Ramsar Sites Information Service”. rsis.ramsar.org (2003年2月21日). 2023年2月17日閲覧。
- ^ a b “Mühlenberger Loch | Ramsar Sites Information Service”. rsis.ramsar.org (1992年6月9日). 2023年2月17日閲覧。
- ^ “Elbauen, Schnackenburg-Lauenburg | Ramsar Sites Information Service”. rsis.ramsar.org (1976年2月26日). 2023年2月17日閲覧。
- ^ “Niederelbe, Barnkrug-Otterndorf | Ramsar Sites Information Service”. rsis.ramsar.org (1976年2月26日). 2023年2月17日閲覧。
- ^ ただし古ザクセン語は、エルベ川流域を起源とする説もある。
固有名詞の分類
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