ウィリアム・ブライ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/03/30 14:28 UTC 版)
ウィリアム・ブライ William Bligh | |
---|---|
渾名 |
あのバウンティ野郎 (that Bounty bastard) |
生誕 |
1754年9月9日 グレートブリテン王国、コーンウォール、セント・トゥディ |
死没 |
1817年12月7日 イギリス、ロンドン、ボンド街25番地 |
所属組織 | イギリス海軍 |
軍歴 |
1761–1783 1787–1817 |
最終階級 | 青色艦隊中将 |
指揮 | 青色艦隊 |
戦闘 |
アメリカ独立戦争 フランス革命戦争 ナポレオン戦争 |
反乱は彼の指揮に対して起こされた。彼をはじめとする19名は反乱者によってバウンティ号の搭載艇に乗せられ海上に送り出されたが、非凡な航海術によってティモール島まで辿り付いたことで記憶されている。「バウンティの反乱」からかなりの後、彼はオーストラリアのニューサウスウェールズ(NSW)の軍隊における不正なラム酒取引を正す命を受け、ニューサウスウェールズの総督に任命された。これは、ジョージ・ジョンストン少佐がジョン・マッカーサーと共謀して起こしたラム酒の反乱のきっかけとなった。
初期の経歴
コーンウォールのボドミンの近く、セント・トゥディでコーンウォール人の両親、フランシス・ブライと妻ジェーンの子として生まれた[2]。 1761年、7歳のときに、市内に居住したままイギリス海軍と(乗組員名簿への登録を)契約した。それは、士官候補生から士官への昇進に必要な勤務期間を手っ取り早く稼がせるために当時よく行われていたことであった。1770年、16歳で軍艦「ハンター」に乗り組んだ。士官候補生の空席がなかったため、最初の資格は上級水兵であったが、翌1771年の初めには士官候補生となった。同年9月に、軍艦「クレセント」に移り、以後3年の間同艦で勤務した。
1776年、キャプテン・クックにより軍艦「レゾリューション」の航海長に選ばれ、クックの3回目の、そして最後の太平洋への航海に同年7月から同行した。クックの死後、1780年の末にイギリスに帰還し、クック最後の航海の詳細を伝えた。
1781年2月4日、26歳のときに関税徴収人の娘エリザベス・ベサムと結婚した。結婚式はマン島のオンチャンで行われたが、その数日後に、軍艦「ベル・ポール (HMS Belle Poule)」の航海長に任命された。そして同年8月には、ハイド・パーカー提督の下でドッガー・バンク海戦に海尉として参加した。それに続く18ヵ月の間、彼はいろいろな艦で勤務した。1782年にはリチャード・ハウ卿の下でジブラルタルで戦った。
アメリカ独立戦争が終結した1783年から1787年にかけて、商船の船長を務めた。1787年に、海尉の階級のままで海軍所属の武装船「バウンティ」の指揮官に選ばれた。
海軍での経歴
ウィリアム・ブライの海軍での経歴は、多くの職務と多くの任務から構成されている。彼が最初に受けた名を上げたのはキャプテン・クックの軍艦「レゾリューション」の航海長としてであった。ブライはクックの最後の航海を完了させたことで賞賛を受けた。彼の経歴の概要は以下の通りである。
日付 | 階級 | 乗艦 |
---|---|---|
1761年7月1日 - 1763年2月21日 | 船長付給仕 | 軍艦「モンマス(Monmouth)」(64門艦) |
1770年7月27日 | 上級水兵 | 軍艦「ハンター(Hunter)」(10門艦) |
1771年2月5日 | 士官候補生 | 軍艦「ハンター(Hunter)」 |
1771年9月22日 | 士官候補生 | 軍艦「クレセント(Crescent)」(28門艦) |
1774年9月2日 | 上級水兵 | 軍艦「レインジャー(Ranger)」 |
1775年9月3日 | 航海士 | 軍艦「レインジャー(Ranger)」 |
1776年3月20日 - 1780年10月 | 航海長 | 軍艦「レゾリューション(Resolution)」(12門艦) |
1781年2月14日 | 航海長 | 軍艦「ベル・ポール(Belle Poule)」 |
1781年10月5日 | 海尉 | 軍艦「バーウィック(Berwick)」(74門艦) |
1782年1月1日 | 海尉 | 軍艦「プリンセス・アミリア(Princess Amelia)」(80門艦) |
1782年3月20日 | 海尉 | 軍艦「ケンブリッジ(Cambridge )」(80門艦) |
1783年1月14日 | 商船勤務 | |
1785年 | 船長代行 | 商船「リンクス(Lynx)」 |
1786年 | 船長 | 商船「ブリタニア(Britannia)」 |
1787年 | イギリス海軍に復帰 | |
1787年8月16日 | 海尉(艦指揮官) | 海軍武装船「バウンティ(Bounty)」 |
1790年11月14日 | 海尉艦長 | 軍艦「ファルコン(Falcon)」(14門艦) |
1790年12月15日 | 艦長 | 軍艦「メディア(Medea)」(28門艦) |
1791年4月16日 - 1793年 | 艦長 | 軍艦「プロヴィデンス(Providence)」 |
1795年4月16日 | 艦長 | 軍艦「カルカッタ(Calcutta)」(24門艦) |
1796年1月7日 | 艦長 | 軍艦「ディレクター(Director)」(64門艦) |
1801年3月18日 | 艦長 | 軍艦「グラットン(Glatton)」(56門艦) |
1801年4月12日 | 艦長 | 軍艦「モナーク(Monarch)」(74門艦) |
1801年5月8日 - 1802年5月28日 | 艦長 | 軍艦「イリジスタブル(Irresistible)」(74門艦) |
1802年3月 - 1804年5月 | 「アミアンの和約」 | |
1804年5月2日 | 艦長 | 戦列艦「ウォリアー(Warrior)」(74門艦) |
1805年5月14日 | ニューサウスウェールズ総督に任命 | |
1805年9月27日 | 艦長 | 軍艦「ポーパス(Porpoise)」(12門艦) |
1806年8月13日 - 1808年1月26日 | ニューサウスウェールズ総督 | |
1808年7月31日 | 代将 | 軍艦「ポーパス(Porpoise)」(12門艦) |
1810年4月3日 - 1810年10月25日 | 代将 | 軍艦「ヒンドスタン(Hindostan)」(50門艦) |
1811年7月31日 | 1810年7月31日に遡って青色少将[3]に任命 | |
1814年6月4日 | 青色中将[3]に任命 |
- ^ "Bligh; William (1754 - 1817)". Record (英語). The Royal Society. 2012年4月1日閲覧。
- ^ http://www.sttudy.org.uk/Bligh/bligh.htm
- ^ a b c d 当時のイギリス海軍では大将(Admiral)、中将(Vice Admiral)、少将(Rear Admiral)にはそれぞれ「〜of the Red」「〜of the White」「〜of the Blue」の3段階があり、将官の階級は元帥(Admiral of the Fleet)を含めて10段階あった。よって、青色中将(Vice Admiral of the Blue)と青色少将(Rear Admiral of the Blue)は上から7番目と10番目に位置される。
- ^ 帆船のロープなどには防水のためにタールが染み込ませてあり、水兵の衣服や体にもそれが付着していたことによる。
- ^ http://www.qm.qld.gov.au/features/pandora/information/faq.asp#3
- ^ http://www.sl.nsw.gov.au/banks/sections/section_09.cfm
- ^ a b http://www.kew.org/ksheets/fruits.html
- ^ http://www.royalnavalmuseum.org/info_sheets_william_bligh.htm
- ^ “The Rise and Fall of a Female Captain Bligh” (英語). タイム. (2010年3月3日) 2020年11月21日閲覧。
- ^ “Mutiny on the Bounty house:south London home of Captain William Bligh for sale for £2.5m” (英語). Homes & Property. (2020年8月24日) 2020年11月22日閲覧。
固有名詞の分類
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