ウィリアム・ブライ パンノキを求める2度目の航海

ウィリアム・ブライ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/03/30 14:28 UTC 版)

パンノキを求める2度目の航海

1791年から1793年にかけて、彼は軍艦「プロヴィデンス (HMS Providence)」のマスター・アンド・コマンダー(航海長兼艦指揮官)として、軍艦「アシスタンス」とともに、再びタヒチから西インド諸島までパンノキを輸送する命令を受けた[6]。 この輸送は成功し、パンノキの実は今日でも西インド諸島の一般的な食物となっている[7]。 この航海の間に、ブライはジャマイカの果物アキーのサンプルも収集し、帰国後それを王立協会に提出した[7]。 アキーの学名「Blighia sapida」は、ブライに献名されたものである。

その後の経歴

1797年、水兵たちが「劣悪な待遇と強制的な徴用」に対してスピットヘッド反乱を起こしたときにはブライも艦長の一人であった。スピットヘッドでの彼らの要求のいくらかは認められたが、海軍での生活に関する議論は、一般水兵の間で続けられた。反乱はノア錨地でも発生したが、政治的な要求を打ち出したため、結局目的を達成できなかった。ブライの艦はそのときノアにあり、反乱者によって艦から退去させられるなど、直接的に係わることになった。ブライの艦「ディレクター」は反乱者から指揮権を奪還することに成功し、一人の処刑者も出さずに済んだ[8]。 これらの反逆行為が、広範囲のかなりの数の艦船で囁かれていたにもかかわらず、ブライの特定のいかなる行動にも起因していなかったということは明記しておかなければならない。この時彼は、艦隊の兵士の間で広まっている自分のあだ名が『あのバウンティ野郎』であることを知ったのであった。

ブライは軍艦「ディレクター (HMS Director)」の艦長として、キャンパーダウンの海戦(1797年)において3隻のオランダ艦(「ハールレム(Haarlem)」、「アルクマール(Alkmaar)」、「ヴリヘイド(Vrijheid)」)と交戦したが、オランダ艦には深刻な数の死傷者が出たにもかかわらず、「ディレクター」では7人が負傷しただけであった。

ブライは、1801年4月2日のコペンハーゲンの海戦のときにはネルソン提督の指揮下にあり、56門戦列艦「グラットンGlatton)」を指揮していた。「グラットン」は試験的にカロネード砲のみを装備していた。戦いの後、ブライは、その勝利への貢献をネルソンによって特に称賛された。彼は「グラットン」を、他の3隻の船が座礁した砂州の間を安全に航行させた。そればかりでなく、ネルソンがパーカー提督の信号「43」(戦闘停止)に気づかないふりをして、信号「16」(交戦セヨ)を掲げ続けたとき、ブライは2つの相反する信号を同時に見ることができた戦隊唯一の艦長だった。ブライはネルソンの信号の方を中継することによって、彼の後にいたすべての艦が戦い続けることを確実にした。

ブライの逮捕(ブライを臆病者として描いている宣伝漫画)

ブライは1805年3月にサー・ジョゼフ・バンクスからニューサウスウェールズ(オーストラリア)総督の地位を提示され、前任総督フィリップ・ギドリー・キングの2倍にあたる年額2,000ポンドの報酬で任命された。彼は1806年8月に第4代総督としてシドニーに到着した。そこで彼はまたしても反乱(「ラム酒の反乱」)に遭遇する。1808年1月26日、ジョージ・ジョンストン英語版少佐の指揮するニューサウスウェールズ軍が政府庁舎に押し入り、彼を逮捕した。彼は軍艦「ポーパス」でホバートに渡ったが、植民地の実権奪還のための支援を受けることには失敗し、1808年から1810年1月まで船上で実質的な監禁状態に置かれた。

ブライは1810年1月17日にホバートからシドニーに戻り、ジョージ・ジョンストン少佐の軍法会議に提出する証拠を集めると、同年5月12日に軍艦「ポーパス」で出発、10月25日にイギリスに戻った。軍法会議はジョンストンに、許可なく降伏した場合などに言い渡される不名誉除隊の処分を下した。まもなく、ブライは1年遡って青色少将[3]に昇進した。そして、1814年にはさらに青色中将[3]に昇進した。

ブライはダブリンのリフィー河口のノース・ブル・ウォールを設計し、砂州の形成によるダブリン港の閉塞を防いだ。

ブライは1817年12月6日、ロンドンのボンドストリートで亡くなり、ランベスのセントメアリー教会(現在「庭園歴史博物館」となっている)に葬られた。コード・ストーンで作られた彼の墓石の上には、パンノキの飾りが付けられている。博物館の1ブロック東側にはブライの家の記念額が置かれている。

トリビア

  • オーストラリアのクイーンズランド州の最初の女性首相アンナ・ブライ英語版はウィリアム・ブライの子孫である。
  • 船員への苛烈な扱いが有名となったため、英語圏では、現代でも暴君めいた者に対して「ブライのようだ」と形容することがある。例えば、アメリカ巡洋艦カウペンス」にて、2010年、艦長のホリー・グラフ英語版が、部下に対する虐待などを理由に解任される事件が起こった。これを報じたタイムでは、記事の見出しに「女艦長ブライ(Female Captain Bligh)」と付けた[9]
  • ロンドンでは、ブライが1805年にニューサウスウェールズ州知事に任命されるまで過ごした邸宅が、今も残されている。この家には、1952年、フィリップ王子によってブライが住んでいたというブルー・プラークが設置されている。この家は、2020年より、約250万ポンドで売りに出されている[10]

  1. ^ "Bligh; William (1754 - 1817)". Record (英語). The Royal Society. 2012年4月1日閲覧
  2. ^ http://www.sttudy.org.uk/Bligh/bligh.htm
  3. ^ a b c d 当時のイギリス海軍では大将(Admiral)、中将(Vice Admiral)、少将(Rear Admiral)にはそれぞれ「〜of the Red」「〜of the White」「〜of the Blue」の3段階があり、将官の階級は元帥(Admiral of the Fleet)を含めて10段階あった。よって、青色中将(Vice Admiral of the Blue)と青色少将(Rear Admiral of the Blue)は上から7番目と10番目に位置される。
  4. ^ 帆船のロープなどには防水のためにタールが染み込ませてあり、水兵の衣服や体にもそれが付着していたことによる。
  5. ^ http://www.qm.qld.gov.au/features/pandora/information/faq.asp#3
  6. ^ http://www.sl.nsw.gov.au/banks/sections/section_09.cfm
  7. ^ a b http://www.kew.org/ksheets/fruits.html
  8. ^ http://www.royalnavalmuseum.org/info_sheets_william_bligh.htm
  9. ^ “The Rise and Fall of a Female Captain Bligh” (英語). タイム. (2010年3月3日). http://content.time.com/time/nation/article/0,8599,1969602,00.html 2020年11月21日閲覧。 
  10. ^ “Mutiny on the Bounty house:south London home of Captain William Bligh for sale for £2.5m” (英語). Homes & Property. (2020年8月24日). https://www.homesandproperty.co.uk/luxury/property/mutiny-on-the-bounty-south-london-house-for-sale-a139971.html 2020年11月22日閲覧。 


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