たけし軍団
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元漫才コンビ
- カージナルス(タカ・ポポ)
- 〆さば(旧名:北枕→水呑み百姓→雨空トッポ・ライポ→海老道楽食べ放題・飲み放題→雨空トッポ・ライポ)(アタル・ヒカル)
- 北京ゲンジ(お宮の松・無法松)
- スピーク☆イージー(ガンビーノ小林・アル北郷)
- 兄貴会(ガンビーノ小林・鵯来留夫)
- ジョーダンズ(山崎まさや・三又忠久)
- ブラック・ボックス(ルビー浅丘モレロ・P-MAN)
- ヤチョウの会(ケンタエリザベス3世・鳩山来留夫)
- ツーツーレロレロ(大森くんた・東英夫)
- あっちゃん→アッチャンズ(近藤夢・近藤六)
- 浅草キッド - 前述。
経歴
1982年に弟子入りしたそのまんま東(現:東国原英夫)が一番弟子であり、その後、大森うたえもん・松尾伴内・ダンカン・柳ユーレイ(現:柳憂怜)と弟子が増え、ツービートの活動が縮小するにつれ、相棒ビートきよし(現在はきよしもオフィス北野の所属となっている)の代わりのような存在として何かとひとまとめで団体芸をやりたいとして、1983年3月から『アイドルパンチ』(テレビ朝日)などに出演させたのをきっかけに[15]、同年に正式に結成[1][16]。
なお、順番としては東に続くのは当時ツーツーレロレロを組んでいた大森だが、結成時は大森は高田文夫の世話役を命じられていたため、コンビ結成の約1年後に軍団入りしている[17]。弟子を増やす起点となったのは1982年1月28日深夜『ビートたけしのオールナイトニッポン』終わりに、ファンとして出待ちをしていた松尾伴内を見たたけしが「あいつが駆けつけてきたら、お前盾になれ、あいつは刺すぞ」と東に声を掛け、駆けてきた松尾がいきなり土下座をしたことである[17]。松尾はなぜか東に向いて土下座しており、間違えましたと、改めてたけしに弟子入り志願した。この時は土下座をしなかった。その後たけしは「野球をやりたい」と口にして、松尾をボーヤとして引き入れた[17]。これをきっかけに弟子入り志願者を受け入れるようになり、カージナルス(タカ、枝豆)が店員をしていたスナックポプラや草野球つながりで徐々にメンバーを増やしていく。
たけし軍団の名称は『アイドルパンチ』に出演した際にディレクターだった森昌行に付けられたもので、当初は「たけしアーミー」と書かれたトレーナーを着ていた[18]。『たけしのお笑いサドンデス』がスタートした1983年10月頃よりたけし軍団の名前で呼ばれ始めた。
このときの8人(そのまんま東、大森うたえもん、松尾伴内、ダンカン 、柳ユーレイ、ガダルカナル・タカ、ラッシャー板前、つまみ枝豆)が元祖たけし軍団である[19]。結成当時の写真は、軍団員が裸で組体操(パンツは着用)「ピラミッド」をしているものがある[20]。
軍団結成の目的は、若い衆の面倒をみるのをやりたかったということと、漫才自体が限界になったので団体で芸をやりたかったとたけし本人は語っている[21]。別の機会には、草野球のチームを組みたかっただけとも語っており[22]、当初は8人体制を取っていた(後にグレート義太夫と井手らっきょが加入して10人体制に移行)。実際にガダルカナル・タカや井手らっきょらは草野球の助っ人から軍団入りしている。
1984年2月からたけし司会の『スーパージョッキー』(日本テレビ)の企画「THEガンバルマン」に出演し[16]、肉体的・精神的苦痛を伴うさまざまなゲームに身体を張って挑む姿が笑いを呼び人気を得た[23]。「身体を張って笑いを取る」路線は、後の『お笑いウルトラクイズ』(日本テレビ)まで一貫している(ただし、亜仁丸レスリーや、ゾマホン・ルフィンのように、文化人的な軍団員は体を張って笑いを取る芸には参加しない)。なお、当時の軍団員はほとんどが20代だったこともあり、「Duet」などの雑誌に取り上げられ、追っかけが存在するなど一部でアイドル的な人気を持っていた[24]。これを受けて軍団内でユニットを設けて1986年には歌手デビューもしている(たけし軍団#軍団内ユニットを参照)。1980年代半ばになっても弟子志願者は絶えず、1985年頃にはたけし軍団の二軍として「たけし軍団セピア」、1986年には三軍として浅草キッドブラザースが誕生。
たけしの番組でのスーパーサブ的な役割を担っていたたけし軍団だったが、1986年1月には冠番組『たけし軍団!ヒット&ビート』(テレビ朝日)を持つに至り、また同年5月からスタートした『痛快なりゆき番組 風雲!たけし城』(TBS)の出演でたけし軍団の人気は最盛期を迎える。しかし、同年の12月のたけしの「フライデー襲撃事件」にたけし軍団のうち11人が参加したことにより『ヒット&ビート』は打ち切られる。
フライデー襲撃事件では、たけし軍団は1987年3月に不起訴処分が決定[25]。謹慎が解けて以降は、たけし軍団としての活躍の場は再びたけしの番組のスーパーサブ的存在へと戻り、日本テレビ『お笑いウルトラクイズ』、『スーパージョッキー』、フジテレビ深夜のたけし枠の番組(『北野ファンクラブ』〜『たけしのコマ大数学科』)、テレビ朝日『朝までたけし軍団』シリーズ、TBS『ビートたけしの絶対見ちゃいけないTV』等に出演。ガダルカナル・タカが橋本志穂と結婚した際には『たけし軍団のハワイ大家族旅行』(TBS、1994年1月3日)という特番が放送された。
北野武が監督した柳ユーレイ主演の映画『3-4X10月』は、当初はたけし軍団解散記念映画として企画された。しかし映画公開の1990年時点ではまだメンバーが自立できないという判断によりこのときは解散が見送られた[26]。
1999年3月に『スーパーJOCKEY』が終了して、たけしと軍団が毎週のように顔を合わせる仕事が終わり、加えて軍団のメンバーが所帯を持つようになって、たけしが頻繁に誘うこともなくなった[27]。
2000年代以降はたけしが、教養番組など、堅めの番組を多く持つようになり、たけし軍団のメンバーの方向性もバラバラとなって軍団として集まって出演する機会が年毎に減っていった。そんな中、たけしが軍団という呼び方もやめて、たけし軍団も卒業にしようと言い出し、2004年10月に『朝までたけし軍団』の番組中でたけし軍団の解散が発表された[28]。
実際に2005年1月に『朝までたけし軍団』が放送された際は『朝まで元たけし軍団』という番組名で、解散した「元たけし軍団」の番組として放送された[29]。
しかしこの解散発表は、企画を練っているうちにテレビでのお笑いの企画のような形となったもので、周囲からも本気での解散と受け取られておらず、軍団当人たちも解散とは思っていないとガダルカナル・タカが明かした[28]。『朝まで元たけし軍団』のタイトルでの放送も1回きりで2005年9月放送の第7回からは『朝までたけし軍団』にタイトルが戻された[30]。
グレート義太夫も2016年1月のSMAP解散の報に触れた際、「絶対殿が『たけし軍団解散』とか言い出しそうだよね(笑)」と軍団が存続しているという前提でのつぶやきをTwitterで発している[31]。
なお、2007年の政界転身時にたけし軍団から脱退してそのまんま東の芸名を返上し、タレント活動再開後もオフィス北野に復帰しなかった元メンバーの東国原英夫は2016年12月23日にバラエティ番組『バイキング』で、たけし軍団は既に解散したと主張している。その際、軍団としての仕事の減少による自然解散という前述の理由が説明された[32]。
軍団の特徴
軍団員はたけしを「師匠」でなく「殿」と呼ぶ。師匠と呼ばれることに抵抗を感じていたたけしが、萩本欽一が大将と呼ばれていることも考えて[33]、1984年5月から「師匠」と呼んだ場合に罰金を取るようになり、「殿」と呼ばせることをたけしが決めた[34]。当初はバカ殿と呼ばせていた[18]。ただし、トーク番組で軍団員ではない司会者等の第三者に対しては「たけしさん」と呼んだり、芸能界引退後の東国原英夫は政治家として『TVタックル』などでたけしと共演した際は「師匠」と呼んでいる。
一軍であるたけし軍団内部に上下関係はなく横並びの関係で、軍団の形が出来た後に加入したグレート義太夫が敬語で喋っていたが、それ以外は年齢差や芸歴に関係なくタメ口だった[35]。しかし軍団の人数が10人になり、さらに希望者が殺到するようになったため、ふるい落とすために希望者はダンカンの弟子の形で受け入れることとし、以後はダンカンが極端に上下関係を強いて、そこで認められた者のみがメンバーとして受け入れられるようになった[36][37]。
たけし軍団にリーダーは存在しないが[38]、初期には太田プロ所属のすがぬま伸が隊長格の役割を果たしていた[39]。
年に一回、事務所(軍団)内で行われる酒席において年功序列が逆転する宴が催される。これによりたけしが最底辺の芸人となり、軍団メンバーからは(下部から上部へ)アゴでコキ使われ、雨あられの説教を受けるという逆転現象で盛り上がる余興がある。この宴会は、たけしが考案した宴会であり、師匠、弟子の垣根を取り払っての宴会は、元々、たけしの師匠である深見千三郎が、自分の事そっちのけで、弟子のたけしに酒を薦めるなど、師匠、弟子関係なく楽しむことを目的とした宴会を考えていたことを実行したものである。
先輩の軍団員は後輩の軍団員を居候させるという方針を取る。これは、まだ芸人として生計が立てられない後輩の軍団員の保護策として機能している。このような先輩が後輩の面倒を見る制度は、たけしが師匠の深見に非常に気に入られ、たけしが深見から破門されても、深見がたけしの面倒を見るなど、芸人を長く続けるようにすべきという意図があった(たけしと深見との師弟関係及び、深見がたけしを破門した経緯については、ビートたけし及び深見千三郎を参照)。一例としてダンカンは結婚するまで、最大で6人の軍団員を居候させていた。なお、軍団員が結婚した場合は、後輩軍団員を居候させることは免除され、別の軍団員の家に預けられる[20]。
変な芸名を付けられる。たけし曰く、芸人としてやっていく覚悟があるのかというたけし流の踏み絵の意図であり[40]、同時に自分を安易に頼ってくる者を門前払いする脅しの意味があるのだという[41]。ただし軍団員全員がたけしによる命名というわけではない。たけしとともに軍団に芸名の名付け親になっていた放送作家の高田文夫は、変な名前をつけるのは落語立川流の立川談志を見習っているからと語っている[42]。
たけしが出演していない番組で、軍団員が多く出演する番組としては、『オールスター感謝祭』(島田紳助→今田耕司が司会。たけしも乱入という形で出演経験あり)があり、そのまんま東とガダルカナル・タカが総合優勝経験がある。たけしの出演している番組で共演する機会の多い人物としては、たけしの相方のビートきよし、放送作家の高田文夫、たけしの友人である島田洋七と言った人物と、たけしが出演しない番組では紳助(2011年に芸能界引退)、タモリ、明石家さんまといったたけしとは比較的共演の多い人物と共演する傾向がある。
注釈
出典
- ^ a b 「おいらの自分史」『新潮45別冊 コマネチ! ビートたけし全記録』新潮社、1998年、p.306.
- ^ a b 浅草キッド『キッドのもと』学研、2010年、p.96
- ^ 浅草キッド『キッドのもと』学研、2010年、p.97
- ^ ビートたけし『場外乱闘』太田出版、1992年、p.132
- ^ ビートたけし『こんな時代に誰がした! 場外乱闘2』太田出版、1993年、p.93
- ^ たけし軍団編、ガダルカナル・タカ監修『我が愛と青春のたけし軍団』双葉社、2012年、pp.58-59
- ^ 『本人本01 ビートたけしのオールナイトニッポン傑作選!』太田出版、2008年、p.199
- ^ 僕は実はたけし軍団第一号だった 本当の話 歌う放送作家 植竹公和 2006年7月26日
- ^ ブラザー・コーン、たけし軍団第1号断っていた「東の位置に僕がいた」 - スポーツ報知 2017年7月21日
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- ^ “水道橋博士、「殿に株を分けていただいたのは8人」騒動について語る” (日本語). スポーツ報知. (2018年4月4日) 2018年4月8日閲覧。
- ^ “なべやかんオフィス北野を退社、たけし軍団は辞めず - お笑い : 日刊スポーツ” (日本語). nikkansports.com 2018年4月8日閲覧。
- ^ “たけし軍団、約20年ぶりに結成メンバー10人が集結 40周年記念舞台に東国原英夫と大森うたえもんが合流”. サンケイスポーツ (産経デジタル). (2023年3月12日) 2023年3月31日閲覧。
- ^ たけし軍団TV (2023-03-18), 【完全ドキュメンタリー】たけし軍団結成40周年記念公演で奇跡の10人全員集合!【奇跡の1日】 2023年3月31日閲覧。
- ^ 森昌行『天才をプロデュース?』新潮社、2007年、p.19。
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- ^ a b c アサヒ芸能編集部「我々はこうして殿の下に集った たけし軍団40周年ドキュメント」徳間書店『アサヒ芸能』2023年5月18日特大号 152‐157頁
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- ^ a b たけし軍団編、ガダルカナル・タカ監修『我が愛と青春のたけし軍団』双葉社、2012年、p.332-336
- ^ 12月24日金曜日 水道橋博士の悪童日記 2004年12月24日
- ^ 9月4日 日曜 水道橋博士の悪童日記 2005年9月4日
- ^ グレート義太夫Twitter 2016年1月13日
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- ^ 北野武『孤独』ロッキング・オン、2002年、p.55。
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- ^ 「ビートたけしの21世紀毒談 第979回」『週刊ポスト』2009年5月1日号、p.123
- ^ 高田文夫編『江戸前で笑いたい 志ん生からビートたけしへ』筑摩書房、1997年、p.24
- ^ 『朝日放送の50年 III 資料集』p.150
- ^ 希土色の刻(キドカラー大道(元軍団員)ブログ)2014年6月8日「嗚呼「ビートたけし一門」」
- ^ 週刊新潮 2009年4月2日号 p.63 - 67
- ^ 【11月23日】1991年(平3) 阪神、たけし軍団に逆転負け 翌年はロッテもやられた-日めくりプロ野球09年11月
- ^ a b 「ビートたけしの21世紀毒談 第998回」『週刊ポスト』2009年9月25日・6月2日合併号、p.133
- ^ a b 『異形』p.105。
- ^ 「爆笑『被害者』座談会 『たけし軍団』珍名芸人16人が『殿、改名してください(泣)!』」『週刊新潮』2009年4月2日号、p.65
- ^ たけし軍団編、ガダルカナル・タカ監修『我が愛と青春のたけし軍団』双葉社、2012年、p.167-168
- ^ たけし軍団編、ガダルカナル・タカ監修『我が愛と青春のたけし軍団』双葉社、2012年、p.136
- ^ “寛平 借金は「最大6千万円」”. デイリースポーツ (2015年4月26日). 2015年4月27日閲覧。
- ^ たけし軍団編、ガダルカナル・タカ監修『我が愛と青春のたけし軍団』双葉社、2012年、p.141ほか
- ^ 新潮45 1998年2月号(新潮社)「バカ殿言行録--お手打ち覚悟の大放談」139〜159p
- ^ “つまみ枝豆「水ダウ」ドッキリ企画反響に「これが私なのかもしれません」”. Livedoor ニュース (2021年7月22日). 2021年7月23日閲覧。
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