趙筰
劉璋の巴郡太守。巴西郡の人《華陽国志》。「趙莋」とも作る《先主伝》。 建安十八年(二一三)、諸葛亮・張飛・趙雲が荊州から長江を遡って巴郡に侵入すると、将軍厳顔とともにこれを拒んだが、張飛のために敗北を喫した《華陽国志》。のちに益州別駕従事となり、同二十五年、劉備に帝位に即くよう言上している《先主伝》。 【参照】厳顔 / 諸葛亮 / 張飛 / 趙雲 / 劉璋 / 劉備 / 益州 / 荊州 / 長江 / 巴郡 / 巴西郡 / 太守 / 別駕従事 |
趙莋
趙左
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趙 左(ちょう さ、中国語: 赵左、拼音: 、Chao Tso、1573年? - 1636年?)は、明末に活躍した画家である[1]。字は文度[2]。松江府華亭県の出身。
宋旭について画を学び、宋懋晋は同門である。五代の董源を理想に掲げながらその正統とされる元末四大家に師法する。殊に倪瓚と黄公望を重視した。同郷の董其昌と親交が深く、その影響を受けて山水画の様式は董の代筆となるほど近接。松江派の代表的な画家として活躍し、のちに蘇松派の祖となった。代表作に「雪景山水図」(重要美術品・静嘉堂文庫美術館所蔵)などがある。
参考文献
関連文献
- 財団法人静嘉堂文庫 編 『中国絵画』1985年。 NCID BN06861622。昭和60年、2冊(別冊解説45頁とも)。
脚注
注釈
出典
- ^ Cihai 1979, p. 1944.
- ^ “趙左略歴(Zhao Zuo Brief Biography)” (英語). China-on-site.com. 2008年7月9日閲覧。
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