成廉
(?~198?) | ||
呂布の将。 呂布は袁紹に身を寄せたとき、袁紹とともに常山の張燕を攻撃した。張燕は精鋭一万人、騎馬数千匹を抱えていたが、呂布は成廉・魏越ら数十騎を率いて張燕陣営に突撃、それは一日に三度にも四度にも及び、みな敵将の首を取ってから帰陣した。十日余りも戦っているうちに張燕軍は打ち破られた《後漢書呂布伝》。 建安三年(一九八)九月、曹操は呂布征討の軍を催し、十月、彭城を屠った。そのまま下邳へと軍を進めてきたので、呂布は騎兵を率いて迎え撃ったが、大敗し、驍将成廉は生け捕りになった《武帝紀》。 『武帝紀』において敵将に「驍将」と価値判断を伴う呼称を用いるのは珍しい。当時においては武名を知られていたのだろう。成廉は下邳城の陥落後、呂布・陳宮らとともに斬首されたと思われる。 |
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