4度目の覚書交換
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/16 05:14 UTC 版)
「スターリン・ノート」の記事における「4度目の覚書交換」の解説
1952年8月23日、ソ連は最後の覚書を送った。この書簡は、ソ連の主な立場と批判を繰り返していた。さらに、西側諸国は戦勝国が選挙を監督する事を認めたにも関わらず、突然、ソ連は国際的な選挙委員会の設置を完全に拒否した。その代わりドイツの両国家が責任と対等な代表権を持つ委員会を設置すべきだとしたのである。しかし、この案は既に1951年に西側諸国が拒否していた。このため、西側諸国は1952年9月23日の回答で、以前の見解を繰り返し、4か国による中立な委員会の設置を再び提案するにとどめた。 もし、西側の最初の回答の後、交渉の不成立が、東側・西側の双方で内部決定されていたなら、その見解は最後の4つの書簡の内容(極論的な形で)によっても公に表明される形になった。
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