3人の子(信忠・信雄・徳姫)について
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/01 06:14 UTC 版)
「生駒吉乃」の記事における「3人の子(信忠・信雄・徳姫)について」の解説
弘治3年(1557年)に信忠、永禄元年(1558年)に信雄、永禄2年(1559年)に徳姫を産んだといわれるが、後年織田家の主流が信雄の家系になって以降の史料には、信忠生母が信雄と同じであるとの記述が散見されるようになる。 勢州軍記・余吾庄合戦覚書・寛政重修諸家譜 信忠は正室濃姫の養子となって嫡子としての資格を得たことは江戸期の作で信憑性に乏しいが、『勢州軍記』『余吾庄合戦覚書』『津嶋大橋記』に記載されていることから、当時の奥の慣習から考えれば、正室の管理下である奥において、信長の胤であることがはっきりしている状態で信忠が誕生したと推測できる。なお、信忠、信雄は「寛政重修諸家譜」では清洲城で誕生したことが記されている。 武功夜話(前野家文書) 『前野家文書』では、吉乃自身が清洲城に入ったことは記されておらず、三子を生駒屋敷で生み、小牧城完成後数年の後に増設された同書以外に存在を確認できない御台御殿に、室(側室)として移り住んだことになっている。 織田家雑録 『織田家雑録』には「信忠・信雄・五徳の3人が鼎の足になって織田家を支えて欲しいと五徳と名付けた」とあるが、五徳を信忠の姉と表記してあるなど史料にも矛盾がある。
※この「3人の子(信忠・信雄・徳姫)について」の解説は、「生駒吉乃」の解説の一部です。
「3人の子(信忠・信雄・徳姫)について」を含む「生駒吉乃」の記事については、「生駒吉乃」の概要を参照ください。
- 3人の子についてのページへのリンク