2代目八重洲橋
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/10/11 20:21 UTC 版)
関東大震災後の1925年(大正14年)、震災復興再開発事業の一環として再度架橋。 1929年、東京駅東側に出入口が設けられ「八重洲橋口」、「八重洲口」と呼ばれた。なお、戦前の八重洲口は裏口であり、貧弱であった。 第二次世界大戦後、外濠川の埋め立て工事が行われ、1948年(昭和23年)に八重洲橋は撤去された。 2代目の八重洲橋は、詩人の木下杢太郎(兄が土木技術者で帝都復興院土木局長の太田圓三)が設計したとする説があり、詩人で文芸評論家の野田宇太郎が取り壊しに際して憤慨したことで知られている。ただし「木下が設計した」については疑義も呈されている。山口文象は少なくともデザイン設計の一部に関わっている。 八重洲橋撤去後の1954年(昭和29年)、日本橋呉服橋・槇町が改称し、八重洲という町名が生まれた。
※この「2代目八重洲橋」の解説は、「八重洲橋」の解説の一部です。
「2代目八重洲橋」を含む「八重洲橋」の記事については、「八重洲橋」の概要を参照ください。
- 2代目八重洲橋のページへのリンク