1532年の遠征
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/06 10:05 UTC 版)
1530年にフェルディナーンド1世がハンガリーでの失地を奪回したのを受けて、スレイマン1世は1532年に12万人の大軍を率いてウィーンに向け出発した。この時、フェルディナーンド1世の側にはキリスト教諸国の連合軍を組織して対抗する時間的余裕が無かった。7月12日にスラヴォニアのオシエク(ドイツ語: Esseg)にいたスレイマン1世がフェルディナーンド1世に送った書簡によると、このスレイマン1世の五度目の遠征はフェルディナーンド1世の兄で神聖ローマ皇帝のカール5世との対決を主目標としており、フェルディナーンド1世は脇の扱いを受けていた。しかしここからドラーヴァ川を越えたオスマン軍は、ウィーンへ向かうルートを離れフェルディナーンド1世の領するハンガリー方面に進路を変え、途上の町や城塞を瞬く間に17つも抜いた。フェルディナーンド1世はハンガリー方面から軍を引き上げ、オーストリアとハンガリーの国境地帯にあるクーセグにはわずか700人の、大砲を持たず銃も少ない防衛隊が残された。 スレイマン1世としてはこの遠征で決定的な勝利を挙げるために、早期にクーセグを陥落させウィーンに迫る必要があった。長期戦になれば、カール5世がドイツ・スペインから大軍を組織し援軍に駆けつけてくる恐れがあったためである。
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