1099年に女教皇が存在したか
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「女教皇ヨハンナ」の記事における「1099年に女教皇が存在したか」の解説
1099年に女教皇が存在したとするジャン・ド・マイイの主張も、既知の歴史と噛み合っていない。確かにその頃教皇位には大きな混乱があった。1085年のグレゴリウス7世の死後、何人もの候補者が教皇位をめぐって争い、皇帝とローマの人々の支持を受けたものが教皇位を勝ち取る情勢であった。ウルバヌス2世が1088年に教皇となったが、ローマには対立教皇クレメンス3世が存在し、ウルバヌスは1097年までローマに居住できなかった。ウルバヌス2世が1099年7月29日に死ぬと、パスカリス2世、クレメンス3世、その他の対立教皇たちが教皇位を争った。この時期になら、女性が教皇あるいは対立教皇の一人となった可能性もあるが、ジャン・ド・マイイの言葉以外には証拠は何もない。現代に残る文書に教皇が出産を行なったという記述はないが、教皇の出産など当時の一大スキャンダルのはずだから、記録に残さないということはありえない。だからそのような出来事はなかったと言えるのである。
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