龍造寺・鍋島両家の重臣
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天正12年(1584年)、沖田畷の戦いで隆信が戦死すると、その跡継ぎである龍造寺政家に引き続き仕える事となる。やがて信安から「賢種」(ともたね)に改名するのだが、これは政家が「鎮賢」(しげとも)と名乗っていた頃に「賢」の字を与えられて名乗ったものである。天正14年(1586年)、政家の名代として安芸国において小早川隆景に、大坂城において豊臣秀吉に謁見する。 天正15年(1587年)、九州平定の際には龍造寺軍に属して出陣する。その戦いぶりから秀吉を始めとする諸将から一目置かれるようになる。同年、天草の戦いに出陣し、加藤清正、小西行長を援護した功により、清正から甲冑を賜る。その後は、豊臣氏との外交を担うなど、次第に家中で重きを成すようになる。 文禄元年(1592年)の文禄の役、慶長2年(1597年)の慶長の役では、龍造寺軍の先鋒を務める。この頃から龍造寺氏筆頭家老の鍋島直茂に仕えるようになる。諱(名前)は、初名の信安から賢種を経て、茂種、そして茂安と名乗る事となるが、これは直茂から「茂」の字を与えられて名乗ったものである。 慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いの際には、伏見城の戦い、安濃津城の戦いに出陣する。その後、鍋島直茂・勝茂親子が西軍から東軍に寝返ったのに従い、筑後国柳川城、久留米城を攻め落とす。この時、直茂に命じられて柳川城主である立花宗茂に降伏を勧めるために折衝役を務めた。
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