黒田官兵衛から豊臣秀次へ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/01 15:41 UTC 版)
「厚藤四郎」の記事における「黒田官兵衛から豊臣秀次へ」の解説
直末は1590年(天正18年)に小田原征伐へ参加するも、同年3月29日、伊豆国山中城攻めで間宮康俊軍の銃弾に当たり戦死した。直末の死後、遺された妻の心誉と子女は義兄弟の黒田官兵衛に引き取られるが、その際に直末の遺品として厚藤四郎も官兵衛へ伝わったものと考えられる。その後、官兵衛は関白である豊臣秀次へ厚藤四郎を献上したが、1595年(文禄4年)、秀吉から謀反の疑いをかけられた秀次は高野山で自害を強要され、死の直前に自身の持っていた名刀のうち、厚藤四郎を近臣の山田三十郎へ与え、三十郎も同刀を用いて切腹し、主君の秀次に殉じた。
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