黒屋家相続
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/01/20 05:07 UTC 版)
宗家の信昌は、満千代の身の上を案じていた模様。七族五老といわれる重臣衆の1家でもあった黒屋甚右衛門勝直が、文禄3年(1594年)に嗣子の無いまま亡くなったため、その跡式を相続させている。黒屋家では勝直の弟が健在であったが、それも構わずに奥平姓のままでの相続を命じている(一説には勝直の娘婿になったとも)。満千代は、生家から実父・貞行が用いていた掃部の通称を使用、奥平掃部正勝と名を改めた。これにより奥平氏の家中では、黒屋の姓は黒屋勝直以前の傍系で見られるのみで、正勝の血統からは直系・傍系であろうと用いられる事はなくなった。ただ奥平姓の重臣が多い中、呼び分けの意味合いで黒屋家、もしくは黒屋奥平家という呼び名だけが残った。 慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、徳川秀忠軍に属す奥平家昌の配下として参戦。上田城の戦いで働きを示した。関ヶ原の戦勝にともない、主君・家昌が宇都宮藩10万石への加増転封となると、これに付随。1000石の扶持を受ける重臣の1家として、家昌の治政を助けている。元和7年に死去、44歳と伝える。
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