鹿介という名
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/29 09:14 UTC 版)
幸盛の通称(字)、鹿介の命名についての逸話がある。幸盛の幼名は甚次郎といい、病弱な兄に代わって家督を継ぐときに改名して鹿介と称した。一般には、このとき譲り受けた冑に三日月の前立てと鹿の角の脇立がついていたため、冑にちなんで名前を鹿介と改めたとされる。その他には、山の中で鹿の如く走り廻る姿を見て名前を鹿介としたとする説などもあるが、軍記資料に残る改名の理由は次のとおりである。 『太閤記』 長月(9月)のある日、甚次郎(幸盛)は同輩の秋宅甚介と寺本半四郎と共に夜番をしていた。甚次郎は退屈していたので「苗字にちなんで名前を変えてみようではないか」と両友にもちかけた。2人も「なるほど、それは良いことだ」と言って了解したので、3人はそれぞれ、山中鹿介、秋宅庵之助、寺本障子之助と名乗るようになった。 『義残後覚』 幸盛は、尼子晴久の末子として生まれたが、2歳になったときに毛利元就によって晴久(尼子家)が滅ぼされてしまっため、乳母に抱えられ「山中」という所へ逃れ隠れ住んだ。その地で16・17歳まで成長した幸盛は、人品骨柄に優れ手足の節々にひとつかみの毛が生えていたので、山中鹿介と名乗った。 『名将言行録』 あるとき、甚次郎(幸盛)は兄の甚太郎から、長さ6尺の鹿の双角を前立てに備えた冑を譲り受けた。甚次郎はその冑を身につけ戦場に出ると、人はその威風堂々とした姿を見てたちまち恐れ服した。これにより、幸盛は自らを鹿之助(鹿介)と称するようになった。
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