首の返還と遺体の供養
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/03 14:28 UTC 版)
そして、義央の首は泉岳寺の浅野長矩の墓前に捧げられた後、箱に詰められて同寺に預けられた。寺では僧二人にこれを持たせて吉良家へと送り返し、家老の左右田孫兵衛と斎藤宮内がこれを受け取った。この時の二人の連署が書かれている、吉良の首の領収書(首一つ)が泉岳寺に残されている。その後、先の刃傷時に治療にあたった栗崎道有が義央の首と胴体を縫って繋ぎ合わせたあと、義央は菩提寺の万昌寺に葬られた。戒名は「霊性寺殿実山相公大居士」。 この当時の万昌寺は市ヶ谷にあったが大正期に「万昌院」と名を改めて中野へ移転し、それに伴って墓も改葬して現在は歴史史跡に指定されている。
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首の返還と遺体の供養
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 02:32 UTC 版)
吉良上野介の首はその後箱に詰められて泉岳寺に預けられた。寺では僧二人が吉良家へと送り届け、家老の左右田孫兵衛と斎藤宮内が受け取った。この時の二人の連署が書かれている、上野介の首の領収書(首一つ)が泉岳寺に残されている。その後、先の刃傷時に治療にあたった栗崎道有が上野介の首と胴体を縫って繋ぎ合わせたあと、上野介は菩提寺の万昌寺に葬られた。戒名は「霊性寺殿実山相公大居士」。 この当時の万昌寺は市ヶ谷にあったが大正期に「万昌院」と名を改めて中野へ移転し、それに伴って墓も改葬して現在は歴史史跡に指定されている。
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