養父・浜野
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/10 03:15 UTC 版)
帝国大学出身で政治家も務めた浜野昇は後継ぎがいなかったことから、当時20歳だった弥四郎を養子とした。1890年に帝国議会衆議院議員となり、当時唯一の医師兼業代議士だった。肺結核予防など近代医療体系構築に尽力していた。その後二選目を狙った選挙では落選し、1895年に大日本帝国軍の軍医として台湾へ赴任した。大日本台湾病院(現・国立台湾大学附属医院(中国語版)、通称:台大医院)の院長に任命されている。養父・昇は弥四郎に「都市を人体に喩えると、健康な都市に必用なのは清潔な飲料水、新鮮な空気と緑地空間である。衛生工学は都市生活者に必須の技術であり、衛生工学者は『都市の医師』だ」と度々説いていた。医師・昇の影響は大きく、その後弥四郎が台湾で衛生インフラ整備に従事するようになる。 (p76)
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