飯沼長順とは? わかりやすく解説

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飯沼慾斎

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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/05/05 02:07 UTC 版)

飯沼慾斎像(岐阜県大垣市俵町)

飯沼 慾斎(いいぬま よくさい、天明2年6月10日1782年7月19日) - 慶応元年閏5月5日1865年6月27日>)は、江戸時代の医家で本草学者。「リンネ」の植物分類法を日本で最初に採用した「草木図説[1]」を出版した。伊勢国亀山(現・三重県)出身[2]。次男として生まれる[3]

人物

亀山城のそばにある飯沼慾斎生誕の地を示す石碑(三重県亀山市)

を守之、後に長順[2]を龍夫といい[2]幼名本平[2]。慾斎は、引退後の号[2]小野蘭山について本草学を学んだ。後、宇田川榛斎に入門し蘭学を修め、大垣に帰り蘭方医を開業し名声を博した[2]文政11年(1828年)には人体解剖もおこなっており、本業の医家としても先駆者であった。60歳を過ぎても壮健で知識欲旺盛であり、自ら慾斎と号したことでもその意欲が覗い知ることが出来る。『草木図説』[1] [2]執筆の傍ら68歳で自ら種痘を試み、70歳を越してから門人とともに写真術の研究をはじめ、80歳では、博物学・医学・本草学の知識を広めようとシーボルトと会見せんとしたものの、これはシーボルトの帰国で実現しなかった。最晩年には、足を傷めたが、山篭に乗っては深山まで植物採集に出かけたという。

1909年(明治42年)、従四位を追贈された[4]

『草木図説』は、草部20巻・木部10巻・禾本沙草無花部10巻からなり、生前に刊行されたのは、草部20巻のみであったが、その価値は、時代を経ても色あせることなく海外でも高く評価されていた[5]牧野富太郎も増訂草木図説を昭和に入ってから出版しているほどで、まして木部の刊行は実に死後120年たった1977年昭和52年)のことであった[1]

関連人物

  • 小島柳蛙 (甥〈妹・登喜の息子〉) - 写真家

脚注

  1. ^ a b c 「草木図説」(そうもくずせつ)飯沼慾斎(1783-1865)全40巻”. 漢方資料館. 日本薬科大学. 2025年5月5日閲覧。
  2. ^ a b c d e f g 『江戸時代人物控1000』山本博文監修、小学館、2007年、23頁。ISBN 978-4-09-626607-6 
  3. ^ 上田正昭、津田秀夫、永原慶二、藤井松一、藤原彰、『コンサイス日本人名辞典 第5版』、株式会社三省堂、2009年 78頁。
  4. ^ 田尻佐 編『贈位諸賢伝 増補版 上』(近藤出版社、1975年)特旨贈位年表 p.26
  5. ^ 出版直後からルドヴィク・サバティエアドリアン・ルネ・フランシェカール・ヨハン・マキシモヴィッチ等の学者の絶賛をあびている。以下フランセの言葉。「この著作は、著者の偉大なる観察の才能と真の科学を表している。特に植物の姿は良く活写されている。極めて精密な記載がなされ精確でもある。著者の死去によりその仕事が完成しなかったのは、惜しみてあまりある。しかも彼が樹木潅木に関する部分を校了し終わっていることを確かな筋より聞く、--中略--我々は日本国政府がこの部分の出版を早く取り計らわれん事を熱望する。」--引用『日本植物名彙』序文、1872年

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