飯沼長高
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/05/10 05:12 UTC 版)
|
|
---|---|
時代 | 江戸時代中期 |
生誕 | 不詳 |
死没 | 元文2年(1737年)12月25日 |
改名 | 次郎三郎(幼名)→丹左衛門(通称) |
別名 | 藤原長高、源長高 |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 蜂須賀家 |
藩 | 阿波徳島藩 |
氏族 | 藤原秀郷流大口氏 後に源氏流飯沼氏を称す |
父母 | 父:大口清行、母:山田権左衛門妹 養父:飯沼長賀 |
兄弟 | 大口清信、飯沼長高、先山親行室、梯政休、佐野利重室 |
妻 | 飯沼長賀娘 |
子 | 長澄、龜次郎、長清、佐野利安、生田直恭 |
飯沼 長高(いいぬま ながたか、? - 元文2年(1737年)12月25日)は、江戸時代中期ごろの武士[1]。通称は丹左衛門[1]。阿波飯沼家3代当主[1]。
経歴
長高は、阿波徳島藩家臣大口清行の次男に生まれる[1]。母は山田権左衛門の妹[1]。幼名を大口次郎三郎といい、元服して大口丹左衛門長高と名乗った[1]。兄の大口清信とともに徳島藩に仕えた[1]。後に飯沼長賀の養子となって飯沼丹左衛門長高と改名し、長賀の娘を正室に迎えた[1]。
享保7年(1722年)12月23日、隠居して自楽と号した養父・長賀の家を継ぎ、阿波飯沼家3代当主となる[1]。参勤交代で江戸に上る際には、父の名代として飯沼家を動員した[1]。享保12年(1727年)5月23日、自楽が病死すると、長高は名実ともに飯沼家の当主となり、その後10年間当主としての役割を果たして、元文2年(1737年)12月25日、病死した[1]。
氏族
長高の生家である大口氏は、藤原秀郷の末裔とされ、伊勢国大口郷(現在の三重県松阪市大口町付近)に本拠を置く土豪であった[1]。つまり本姓は藤原氏であるため、正式な姓名は藤原長高である。
飯沼氏は源氏を称する氏族で、家紋は笹竜胆を使用し、長高の養父・長賀の5代先祖にあたる飯沼長就が築城した美濃国池尻城3千貫の城主の家系である。一族の中では長賀の祖父である織田秀信家臣の飯沼長資が名高い。
系譜
- 祖父:大口伊兵衛清秀
- 父:大口伊兵衛清行
- 母:山田権左衛門某妹
- 養父:飯沼幾右衛門長賀
- 妻:養父幾右衛門長賀娘
- 長男:飯沼夫左衛門長澄
- 次男:飯沼龜次郎某
- 三男:飯沼藤藏長清(飯沼夫左衛門長澄養子)
- 四男:佐野藤右衛門利安(佐野市之丞利重養子)
- 五男:生田梶之進直恭(生田辫左衛門某養子)
脚注
- 飯沼長高のページへのリンク