鞠智城との関連
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2013/05/01 14:54 UTC 版)
『続日本紀』の文武天皇二年(698年)五月条には、大野城・基肄城と並んで鞠智城が大宰府の管轄下で建設されたという記述がある。この鞠智城がどこにあったかはいつしか途絶え、江戸時代から明治時代には様々な説が提言されていた。 昭和に入ると、鞠智城の位置に関する考察が進み、中島秀雄らが遺跡や遺構また地名等から考察し、米原の遺跡が鞠智城跡という説を新聞紙上に発表した。1937年(昭和12年)には坂本経堯が論文「鞠智城址に擬せられる米原遺跡について」を発表し、これを受けた熊本県教育委員会が同地を「史跡・伝鞠智城跡」に指定した。その後、発掘などさまざまな調査結果が積み重なり、1976年(昭和51年)にはこの説が確たるものとみなされ史跡指定から「伝」の文字が外された。 宝比べをした駄の原長者の在地はかつての官道の駅であり、熊本市に伝わる蜑(あま)長者伝説は国府があったとも言われる子飼にひもづいている。鞠智城の跡地を舞台とする米原長者伝説を合わせると、これら3つはそれぞれいにしえの政府機関に縁付き、長者伝説はこれら過去の歴史を反映しているのではとの意見もある。
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