間島冬道
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間島 冬道(まじま ふゆみち、1827年11月26日(文政10年10月8日)- 1890年(明治23年)9月30日)は、江戸時代後期から明治時代の武士。勤皇の志士として活動した。また歌人であり、政治家、銀行家である。初名は正興、正休。通称は万次郎。
略歴
文政10年(1827年)10月8日に、尾張藩士として生まれる[1]。植松茂岳に国学を学び、継いで和歌を熊谷直好に学んだ。14歳で徳川慶勝の近侍となり、木曽奉行、勘定奉行などを務める[2]。幕末には勤王を唱え、安政の大獄で慶勝とともに5年間の幽閉生活を送る[2]。
明治維新後、藩から選ばれて貢士となり公議所に出仕、後に刑法官判事となる[3]。明治2年(1869年)の東京奠都に従い東上し、大宮県知事、名古屋県参事、宇和島県権令を歴任する[4]。明治5年(1872年)に退官。
明治10年(1877年)、第十五国立銀行開業に当たり要職に就任し、日本鉄道の理事も務める[5]。歌人としての活動にも精力を注ぎ、明治19年(1886年)宮内省御歌所寄人となり、高崎正風、松波遊山らと並んで明治六歌仙の一人と呼ばれる。
明治23年(1890年)9月30日、肺がんのため死去、享年63歳[6]。同年9月25日付で正五位を贈られる[7]。東京都の谷中霊園に眠る[8]。
家族
- 妻・由伎子 ‐ 旧姓・大塩
- 六男・間島仲彦 ‐ 上5人の兄たちは全員早世。[9]
- 七男・間島弟彦
- 八男・間島季道(1890年生) ‐ 弟彦の異母弟。実業家。冬道が亡くなってから出生したため弟彦のもとで育ち、北海道帝国大学農学実科卒業後、農務省の海外実業練習生として米国留学、帰国後三越を経て1924年東洋製罐支配人・監査役、1939年に東洋機械を設立し取締役。[9][10]
- 二女・綾子 ‐ 榊原浩逸の妻。夫の義弟に鈴木寅彦。[9][11]
- 三女・志保子(汐子) ‐ 白滝幾之助の妻。[9]
- 孫・池田蕉園 ‐ 綾子の娘。池田輝方の妻。[9]
- 孫・文子 ‐ 綾子の娘。長世吉の妻。[12]
書籍
- 間島弟彦編 編『冬道翁歌集』 上、間島弟彦、1910年9月30日。 NCID BA32189680。全国書誌番号: 54012368。
- 間島弟彦編 編『冬道翁歌集』 下、間島弟彦、1910年9月30日。 NCID BA32189680。全国書誌番号: 54012368。
- 間島弟彦編 編『間島冬道翁全集』 上、間島弟彦、1919年11月30日。 NCID BN12920045。全国書誌番号: 43021092。
- 間島弟彦編 編『間島冬道翁全集』 下、間島弟彦、1919年11月30日。 NCID BN12920045。全国書誌番号: 43021092。
脚注
- ^ 小伝間島弟彦 1977, p. 1.
- ^ a b 小伝間島弟彦 1977, p. 14.
- ^ 小伝間島弟彦 1977, pp. 1–2.
- ^ 小伝間島弟彦 1977, p. 2.
- ^ 小伝間島弟彦 1977, p. 3.
- ^ 小伝間島弟彦 1977, p. 4.
- ^ 「叙任及辞令」『官報』第2177号、印刷局、1890年9月30日、5頁、NDLJP:2945430/3。
- ^ 小伝間島弟彦 1977, p. 6.
- ^ a b c d e 小伝間島弟彦 1977, p. 57.
- ^ 人事興信録 第13版(昭和16年) 下、間島季道の項
- ^ 鈴木寅彦『人事興信録』第4版 [大正4(1915)年1月]
- ^ 長世吉『人事興信録』第8版、昭和3(1928)年
参考資料
- 日本人名大辞典
- 青山学院資料センター編 編「第一章 父冬彦翁と弟彦の誕生」『小伝 間島弟彦』青山学院、1977年11月16日、1-6頁。 NCID BN14191139。全国書誌番号: 78005125。
外部リンク
- 『間島冬道』 - コトバンク
- 『間島 冬道』 - コトバンク
- 間島冬道書簡 : 岩倉具綱宛 - 早稲田大学
- 間島冬道草稿 / 間島冬道[撰] - 早稲田大学
- 間島冬道書簡 : 福羽美静・高崎正風宛 - 早稲田大学
- 間島冬道書翰 : 大隈重信宛 - 早稲田大学
- 冬道翁歌集. 上,下 / 間島冬道[詠]; 間島弟彦 編輯 - 早稲田大学
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