間島万次郎とは? わかりやすく解説

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間島冬道

(間島万次郎 から転送)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/04/13 09:45 UTC 版)

間島 冬道(まじま ふゆみち、1827年11月26日文政10年10月8日)- 1890年明治23年)9月30日)は、江戸時代後期から明治時代の武士勤皇の志士として活動した。また歌人であり、政治家銀行家である。初名は正興、正休。通称は万次郎。

略歴

文政10年(1827年)10月8日に、尾張藩士として生まれる[1]。植松茂岳に国学を学び、継いで和歌を熊谷直好に学んだ。14歳で徳川慶勝の近侍となり、木曽奉行、勘定奉行などを務める[2]。幕末には勤王を唱え、安政の大獄で慶勝とともに5年間の幽閉生活を送る[2]

明治維新後、藩から選ばれて貢士となり公議所に出仕、後に刑法官判事となる[3]。明治2年(1869年)の東京奠都に従い東上し、大宮県知事、名古屋県参事、宇和島県権令を歴任する[4]。明治5年(1872年)に退官。

明治10年(1877年)、第十五国立銀行開業に当たり要職に就任し、日本鉄道の理事も務める[5]。歌人としての活動にも精力を注ぎ、明治19年(1886年宮内省御歌所寄人となり、高崎正風松波遊山らと並んで明治六歌仙の一人と呼ばれる。

明治23年(1890年)9月30日、肺がんのため死去、享年63歳[6]。同年9月25日付で正五位を贈られる[7]。東京都の谷中霊園に眠る[8]

家族

書籍

脚注

  1. ^ 小伝間島弟彦 1977, p. 1.
  2. ^ a b 小伝間島弟彦 1977, p. 14.
  3. ^ 小伝間島弟彦 1977, pp. 1–2.
  4. ^ 小伝間島弟彦 1977, p. 2.
  5. ^ 小伝間島弟彦 1977, p. 3.
  6. ^ 小伝間島弟彦 1977, p. 4.
  7. ^ 「叙任及辞令」『官報』第2177号、印刷局、1890年9月30日、5頁、NDLJP:2945430/3 
  8. ^ 小伝間島弟彦 1977, p. 6.
  9. ^ a b c d e 小伝間島弟彦 1977, p. 57.
  10. ^ 人事興信録 第13版(昭和16年) 下、間島季道の項
  11. ^ 鈴木寅彦『人事興信録』第4版 [大正4(1915)年1月]
  12. ^ 長世吉『人事興信録』第8版、昭和3(1928)年

参考資料

  • 日本人名大辞典
  • 青山学院資料センター編 編「第一章 父冬彦翁と弟彦の誕生」『小伝 間島弟彦』青山学院、1977年11月16日、1-6頁。 NCID BN14191139全国書誌番号: 78005125 

外部リンク




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