間宮八十子とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 人名 > 美術人名辞典 > 間宮八十子の意味・解説 

間宮八十子

読み方まみや やそこ

国学者歌人本姓久米久米幹文の姉、国学者間宮永好の妻。和歌文章能くした。著書に『のしづえ』『和歌玉石集』がある。明治24年(1891)歿、69才。

間宮八十子

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/11/06 07:25 UTC 版)

間宮 八十子
誕生 文政6年6月20日1823年7月27日
武蔵国江戸小石川水戸藩
死没 明治24年(1891年2月17日
墓地 台東区谷中玉林寺
職業 歌人
言語 中古日本語
国籍 日本
ジャンル 和歌
代表作 『松のしづえ』
配偶者 間宮永好
ウィキポータル 文学
テンプレートを表示

間宮 八十子(まみや やそこ)は、江戸時代後期から明治時代の歌人。国学者間宮永好の妻。水戸藩徳川斉昭に出仕し、諸大名の妻女に和歌を講じた。

生涯

文政6年(1823年)6月20日、江戸小石川水戸藩邸に久米博高の次女として生まれた[1]天保10年(1839年)[2]久米野の名で徳川斉昭に出仕し、「我が家の紫式部」として寵愛を受け[1]、後の南部利剛室明子を教育した[3]

嘉永4年(1851年)[4]母の病死により退職し[1]、嘉永5年(1851年)藩命により間宮永好と結婚し[5]国学を学んで勅撰和歌集、『万葉集』、『源氏物語』に通じ、諸大名家の妻女や一般人に講じた[1]。特に松平春嶽、明子の弟池田慶徳と親しく[6]英照皇太后宮、昭憲皇后宮にも召されて歌を詠み、宮中出仕の声もかかったが、老齢のため断った[1]

明治23年(1890年)秋から病気がちとなり、明治24年(1891年)1月中風を発症し、2月17日朝7時に死去した[1]。翌日谷中玉林寺夫永好墓の傍らに葬られた[1]。法号は永楽院奇音妙歌大姉[7]

著書

和歌

  • あふひ草かけてそおもふむつましくむかへるたつの千代の行末」 - 松姫君の御婚礼に[11]
  • 「いく薬いつのいて湯の旅おろも千代のよはひをつとにせよ君」 - 南部四位とのゝ姫君を引ぐして伊豆の湯に立出給ふに[12]
  • 「夢にたにのほるへしとはおもひきや身はしもなから雲のうへまて」 - はしめて皇后宮の御前にめされける時[13]

親族

脚注

  1. ^ a b c d e f g h 久米 1891.
  2. ^ 山田 2009, p. 21.
  3. ^ 山田 2009, p. 22.
  4. ^ a b c 山田 2009, p. 9.
  5. ^ 中澤 2008, p. 19.
  6. ^ 山田 2009, p. 23.
  7. ^ a b 山田 2009, p. 35.
  8. ^ a b 山田 2009, p. 10.
  9. ^ 和歌玉石集”. 日本古典籍総合目録データベース. 2017年9月19日閲覧。
  10. ^ 古ろもて日記”. 日本古典籍総合目録データベース. 2017年9月19日閲覧。
  11. ^ 山田 2009, p. 24.
  12. ^ 山田 2009, p. 25.
  13. ^ 久米 1891, pp. 扉, 67.
  14. ^ 山田 2009, p. 15.
  15. ^ 中澤 2008, pp. 2–3.

参考文献



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「間宮八十子」の関連用語

1
14% |||||

間宮八十子のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



間宮八十子のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
株式会社思文閣株式会社思文閣
Copyright(c)2025 SHIBUNKAKU Co., Ltd. ALL RIGHTS RESERVED.
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの間宮八十子 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS