開明朝
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/05/16 04:36 UTC 版)
望帝から禅譲を受けた鱉霊は開明朝を開き、第一代叢帝を称したが秦の勢力が増し、圧力が増大するに伴って第九代開明尚は帝号を廃し、蜀王を称した。 第十二代蘆子覇王の子蜀泮は秦軍の追撃を逃れて越南に逃れ、甌雒国を建国し安陽王を名乗り、秦の侵攻に備えた。秦の滅亡後、南越国を建国した趙佗の侵攻を受けるが退けた。しかし、趙佗の数々の計略によって二度目の侵攻を防ぐことが出来ず、紀元前179年に滅亡した。これをもって開明朝の系譜は途絶えることとなる。
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