鏑木梅渓とは? わかりやすく解説

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鏑木梅溪

読み方かぶらぎ ばいけい

江戸後期画家長崎生。名は世胤・世融、字は君胄、通称彌十郎沈南蘋画法学び、著色の花鳥画を得意とする。のち江戸住し、その名を伝え聞いて画を請う者も多かったという。享和3年(1803)歿、59才。

鏑木梅渓

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/23 07:50 UTC 版)

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鏑木 梅溪(かぶらぎ ばいけい、寛延2年(1749年) - 享和3年閏1月3日1803年2月24日))は江戸時代中期から後期の長崎派の画家。

名は世胤・世融、は君冑。通称は弥十郎。長崎の生まれ。本姓が平氏であることから平世胤とも名乗った。

略歴

肥前国長崎に生まれる。唐絵目利荒木元融に師事し、沈南蘋の画風を学ぶ[1]。細密な彩色花鳥画を得意[2]とした。大村藩御用絵師となり江戸に移住。浜松町に住み、市河寛斎の次男・祥胤(鏑木雲潭)を養子に迎える。噂を聞いた門人が雲集し江戸に長崎派の画法を広く伝えた。

享年55[3]。芝三田長運寺(港区三田4-1-9)に墓所[4]がある。

作品

作品名 技法 形状・員数 寸法(縦x横cm) 所有者 年代 落款 備考
陶淵明図 市河寛斎賛 
牡丹孔雀図 板地著色 絵馬1面 中央120.8(辺104.4)x164.1 金刀比羅宮 寛政3年(1791年) 款記「平世胤敬写」/「□□□印」白文方印 画面右上に奉納銘「寛政三年辛亥歳五月日/豊後国佐伯城主/従五位下伊勢守藤原朝臣高標敬白/家號毛利」[5]
梅花双禽図 大分県立芸術会館 寛政3年(1791年)
柳下唐美人図
諸葛孔明図 大村市教育委員会 市河米庵賛。大村市指定文化財
中国美人図 絹本著色 1幅 95.6x35.2 プーシキン美術館[6]
雪中鷹図 絹本墨画淡彩 1幅 83.5x30.0 プーシキン美術館[6]

脚注

  1. ^ 『古画備考』・『扶桑画人伝』
  2. ^ 『近世逸人画史』・『雲室随筆』
  3. ^ 『当時現在廣益諸家人名録』
  4. ^ 『東京美術家墓所考』
  5. ^ 伊藤大輔責任編集 『平成の大遷座祭斎行記念 金刀比羅宮の名宝─絵画』 金刀比羅宮、2004年、pp.208、370。
  6. ^ a b 国際日本文化研究センター海外日本美術調査プロジェクト編 『海外日本美術調査プロジェクト報告1 プーシキン美術館所蔵日本美術品図録』 国際日本文化研究センター、1993年1月25日、pp.246-247。

参考文献



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