釜石鉱山鉄道C1 20形蒸気機関車
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/10/25 08:34 UTC 版)
釜石鉱山鉄道C1 20形蒸気機関車(かまいしこうざんてつどうC1 20がたじょうききかんしゃ)は、釜石鉱山鉄道で使用された蒸気機関車の1形式である。1933年より製造が開始され、1965年3月28日の釜石鉱山鉄道線廃止まで32年にわたって同鉄道線の主力機関車として重用された。なお、形式称号は軸配置(日本国鉄式)および自重(トン数)を組み合わせたものである。
注釈
- ^ 鉄道線を含む釜石鉱山の経営を行っていた株式会社田中鉱山は、1924年7月に三井鉱山の傘下に入り、株式会社釜石鉱山へ社名変更した。この当時、日本車輌製造は三井物産を代理店として鉄道車両の製造販売を行っており、釜石鉱山鉄道から同社への本形式の発注も、この資本・取引関係によるものであったと考えられる[独自研究?]。なお、釜石鉱山は201・202の竣工間もない1934年には三井財閥の手を離れ、国策会社である日本製鐵の子会社となっている。
- ^ 本江機械製作所の後身。
- ^ 日本統治時代の朝鮮の黄海道地域に建設された762mm軌間の私鉄線。軽便鉄道規格ながら多数の支線を擁し、輸送量も大きく日本統治時代を通じて強力機が求められ続けた。
- ^ ただし実際には鉱山から製鉄所へ向かって高低差約240mの下り片勾配となっており、牽引力そのものは極端に大きくはない。なお、この線形は後年自動空気ブレーキの搭載が強く求められる一因となった。
- ^ 第二次世界大戦後の日本国内では唯一。
- ^ これら15t級機の大半は、第二次世界大戦後の輸送需要減により余剰となり、1947年前後に栗原鉄道、下津井鉄道、井笠鉄道、それに鞆鉄道といった車両不足に悩む日本国内の762mm軌間の鉄道各社へ譲渡された。
- ^ ただし「立山重工業 -その蒸気機関車製造実績について・2-」p.74のメーカーでの形式区分によれば丁C1 21形となっており、釜石向けよりも運転整備重量が1t程度重かったことが知れる。
- ^ 「立山重工業 -その蒸気機関車製造実績について・1-」p.63掲載の機種別年度別一覧では本江機械製作所→立山重工業における丁C1 20形、つまり本形式と同級の機関車は1939年に1両、1942年に5両、合計6両のみの実績となっており、少なくとも同社においては釜石向けの3両と沖縄向けの1両以外では2両が他に生産されたことになるが、これら2両の納入先その他消息は明らかになっていない。
出典
- ^ No.3「機関車設計ノ件」、No.4「機関車竣功ノ件」『第一門・監督・三、地方鉄道・イ、免許・日鉄鉱業(元釜石鉱山)・昭和七年~昭和十五年』
- ^ No.37「機関車設計ノ件」、No.43「機関車竣功ノ件」『第一門・監督・三、地方鉄道・イ、免許・日鉄鉱業(元釜石鉱山)・昭和七年~昭和十五年』
- ^ No.1「車輌増加ノ件」、No.3「車輌竣功ノ件」、No.4「車輌竣功ノ件」『第一門・監督・三地方鉄道・イ、免許・日鉄鉱業(元釜石鉄道)・昭和十六年~昭和十七年』
- ^ No.14「車輌増加ノ件」『第一門・監督・三地方鉄道・イ、免許・日鉄鉱業(元釜石鉄道)・昭和十六年~昭和十七年』
- ^ 「今でも蒸機軽便は走っている1 富士製鉄釜石製鉄所専用鉄道」p.35
- ^ 「今でも蒸機軽便は走っている1 富士製鉄釜石製鉄所専用鉄道」p.34
- ^ 206(1953年6月改造)、207(1954年3月改造)、209(1954年5月改造)、208(1954年9月改造)小島裕「20頓過熱蒸気機関車の使用成果について」『富士製鉄技報」第4巻1号、1955年
- ^ 清野正衛・樽見昇「20頓過熱蒸気機関車(飽和蒸気の改造)の性能試験について」『富士製鉄技報」第3巻1号、1954年
- ^ 「今でも蒸機軽便は走っている1 富士製鉄釜石製鉄所専用鉄道」p.34
- ^ 「今でも蒸機軽便は走っている1 富士製鉄釜石製鉄所専用鉄道」p.34
- ^ 小島裕「20頓過熱蒸気機関車の使用成果について」『富士製鉄技報」第4巻1号、1955年
- ^ 「釜石専用線の軽便SLたち」36頁
- 1 釜石鉱山鉄道C1 20形蒸気機関車とは
- 2 釜石鉱山鉄道C1 20形蒸気機関車の概要
- 3 保存
- 釜石鉱山鉄道C1 20形蒸気機関車のページへのリンク