北条顕時
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北条 顕時(ほうじょう あきとき)は、鎌倉時代中期から後期にかけての武将。北条氏の一門・金沢流北条氏の第3代当主。金沢顕時とも称される。父は第2代(実質的には初代)当主で鎌倉幕府の重職を歴任した北条実時。正室は安達泰盛の娘の千代野。
注釈
- ^ 実時を父とする説では舎兄にあたる。
- ^ 『鎌倉・室町人名事典』では同様の記述において実村を北条時村としている[1]が恐らくは誤植である。
- ^ 『吾妻鏡』正嘉元年十一月二十三日条
正嘉元年十一月小廿三日甲戌。晴。酉剋。越後守實時朝臣息男十歳於相州禪室御亭元服。号越後四郎時方。理髪丹後守頼景。加冠相模太郎七歳
この記載から、理髪役は丹後守頼景(安達頼景)が、加冠役(烏帽子親)は時頼の嫡子・北条時宗が、それぞれ務めたことが確認できる。金沢流北条氏は、北条氏一門の中で将軍を烏帽子親として一字を与えられていた得宗家と赤橋流北条氏に対し、大仏流北条氏の当主とともに、得宗家当主を烏帽子親とする、それよりも一ランク低い家と位置づけられていたことが指摘されており[8]、この方針に沿って烏帽子親の時宗から「時」の字を賜って時方と名乗ったとされている[9]。しかし、時宗は(西暦では)同年の2月に元服したばかりの(付記のある通り)7歳の少年であり、実際はこの当時まだ得宗家の当主にはなっていなかった。年齢的にもこの元服の儀式を主導する立場にあったとは考えにくく、これはその父で邸宅の持ち主であった時頼の指名を受けたものと考えられている[10]。このように得宗家の嫡子が当主になる前の段階で烏帽子親を務めるケースがあり、時宗の場合で言えば、当主となる前に「宗」の字を受けたとみられる二階堂行宗・佐々木宗綱も同様の可能性がある(現段階の研究では時宗と同じく将軍・宗尊親王を烏帽子親としたと考えられている[11]。 - ^ 「胃を病呵せられて、休退を許すといえども、裁あるごとに諮問せらる、然る間、正安の暦清明に夭し」とある(『北条顕時十三廻忌諷桶文案』)[17]。
出典
- ^ a b c d e f g h i j k l m 安田 1990, p. 536, 奥富敬之「北条顕時」
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o 福島金治「北条顕時」『朝日日本歴史人物事典』 。
- ^ a b c 永井 2006, p. 26.
- ^ a b 関靖『金沢文庫の研究』大日本雄弁会講談社、1951年、53頁。
- ^ 鈴木由美『中先代の乱 北条時行、鎌倉幕府再興の夢』(中央公論新社〈中公新書〉、2021年)
- ^ 永井 2009, p. 19.
- ^ 永井 2006, pp. 27–28.
- ^ 山野 2012, p.182 脚注(27).
- ^ 角田 2004, p. 19.
- ^ 山野 2012, pp. 167–168.
- ^ 角田 2004, p. 20.
- ^ 永井 2006, pp. 25–26.
- ^ 永井 2006, p. 9.
- ^ 永井 2006, pp. 9–10.
- ^ a b 永井 2006, p. 12.
- ^ 永井 2006, p. 13.
- ^ a b c 永井 2006, p. 16.
- ^ 永井 2006, p. 17.
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