金森藩邸への願書提出
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宝暦5年9月5日(1755年10月10日)、農民代表40名のうち3名が、宿屋江口屋仁右衛門の案内で郡上藩江戸屋敷に出向き、総百姓名で「宝暦4年に定免法の継続を明記した三家老の免許状を頂いたが、このたび笠松陣屋から庄屋たちが呼び出され、検見法を了承してしまった。ただでさえ生活が苦しい我々農民たちは検見法にされては生きては行けぬので、国元でもお願いしたが叶わなかったので、こうしてお願いに参上した。昨年秋に提出した十六か条の願書は添えなかったが、お尋ねがあればお渡しする。定免法にしていただければ大勢の農民が助かるのでぜひお願いしたい」という内容の願書を提出した。この願書を受け取った江戸金森藩邸は十六か条の願書提出を命じたため、農民たちは十六か条の願書に加えて、新たに十七か条の願書を作成し、一緒に提出した。十六か条と新たに作成された十七か条の願書を比較すると、十七か条はまず十六か条にはなかった総百姓名での提出であることと、農民が使役された際の賃金支給や、藩が勝手に村有林を伐採して伐採した材木を農民に運搬させることを中止するように願うなど、農民の生活に直接関係する訴えが多く、一揆の運動主体が中、貧農層に移ってきたことが想定される。 宝暦5年8月13日(1755年9月18日)に農民代表が江戸へ向けて出発したことが、郡上藩の国元から江戸屋敷への急使によって知らされていた。郡上藩江戸家老の伊藤弥一郎らは対応策を練っており、農民代表らの対応に当たった用人の宇都宮は、代表を宿預けとした上でたびたび藩邸に呼び寄せたあげく、最終的には農民代表全員を牛込御箪笥町の藩別邸に監禁した。
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