金森藩邸への願書提出とは? わかりやすく解説

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金森藩邸への願書提出

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/10 16:44 UTC 版)

郡上一揆」の記事における「金森藩邸への願書提出」の解説

宝暦5年9月5日1755年10月10日)、農民代表40名のうち3名が、宿屋江口仁右衛門案内郡上藩江戸屋敷出向き、総百姓名で「宝暦4年定免法継続明記した三家老の免許状頂いたが、このたび笠松陣屋から庄屋たちが呼び出され検見法了承してしまった。ただでさえ生活が苦しい我々農民たちは検見法にされては生きて行けぬので、国元でもお願いしたが叶わなかったので、こうしてお願い参上した。昨年秋に提出した十六か条の願書添えなかったが、お尋ねがあればお渡しする。定免法にしていただければ大勢農民が助かるのでぜひお願いしたい」という内容願書提出した。この願書受け取った江戸金森藩邸は十六か条の願書提出命じたため、農民たちは十六か条の願書加えて新たに十七か条の願書作成し一緒に提出した十六か条と新たに作成され十七か条の願書比較すると、十七か条はまず十六か条にはなかった総百姓名での提出であることと、農民使役された際の賃金支給や、藩が勝手に村有伐採して伐採した材木農民運搬させることを中止するように願うなど、農民の生活に直接関係する訴え多く一揆運動主体が中、貧農層に移ってきたことが想定される宝暦5年8月13日1755年9月18日)に農民代表が江戸へ向けて出発したことが、郡上藩国元から江戸屋敷への急使によって知らされていた。郡上藩江戸家老伊藤弥一郎らは対応策練っており、農民代表らの対応に当たった用人宇都宮は、代表を宿預けとした上でたびたび藩邸呼び寄せたあげく、最終的に農民代表全員牛込箪笥町の藩別邸監禁した

※この「金森藩邸への願書提出」の解説は、「郡上一揆」の解説の一部です。
「金森藩邸への願書提出」を含む「郡上一揆」の記事については、「郡上一揆」の概要を参照ください。

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