金城朝永とは? わかりやすく解説

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金城朝永

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/01/13 10:09 UTC 版)

金城 朝永 きんじょう・ちょうえい
人物情報
生誕 (1902-05-18) 1902年5月18日
日本沖縄県
死没 1955年3月10日(1955-03-10)(52歳没)
出身校 東京外国語学校
学問
研究分野 沖縄学言語学
研究機関 東京学芸大学
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金城 朝永(きんじょう ちょうえい、1902年明治35年)5月18日 - 1955年昭和30年)3月10日[1])は、沖縄県出身の沖縄研究者。特に琉球方言の研究を行った。

経歴

9歳のとき、沖縄学の父・伊波普猷の開いた「子供の会」に入会しており、幼い頃から伊波の影響を受けて育った。中学の時には伊波とともに日本組合基督教会沖縄支部に入会。当時の標準語教育に反発し、中学は落第した[2]。上京した後、東京外国語学校で学ぶ。卒業後、伊波普猷から紹介された岡村千秋(柳田國男の女婿)を通じて大橋図書館で外国書担当の司書の職を得、同じく同館に勤務した大藤時彦と親しくなる[3]。また、柳田國男折口信夫らが中心となって作った「南島談話会」に参加[4]。その後も柳田の主催する「木曜会」に参加している。こうした環境の中で方言民俗を研究していった。

1930年3月、図書の整理法をめぐって上役と意見が食い違ったことが原因で、大橋図書館を退職[5]

1936年、金田一春彦東京大学國學院大學の学生に請われて、自宅で半年間にわたって琉球語のアクセントについて教授した。また、金田一京助アイヌ調査の助手として、樺太北海道の取材旅行に行っている。この縁もあり、翌年三省堂での辞書編纂に参加することとなった[2]

戦後は米軍の翻訳官や東京学芸大学での仕事を行いながら、琉球の歴史を研究していった。

著書

脚注

  1. ^ デジタル版 日本人名大辞典+Plus
  2. ^ a b 並松信久(2015)「金城朝永と琉球学の構想」京都産業大学論集人文科学系列、48号
  3. ^ 金城芳子『なはをんな一代記』ほるぷ総連合、1980年、298頁。 
  4. ^ 島村幸一(2014)「「島袋源七」研究」立正大学大学院紀要30号
  5. ^ 金城芳子『なはをんな一代記』ほるぷ総連合、1980年、308頁。 

関連項目

外部リンク




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