郭再祐の抗戦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/06/01 14:24 UTC 版)
日本軍の猛攻に対して、朝鮮正規軍は町を放棄した。正規軍が退去してから、郭再祐は日本軍侵攻の9日後に一族、村民など50人を集めて、宜寧村防衛の組織をつくる。これは文禄・慶長の役における最初の義兵軍であった。 日本軍三番隊は昌原からまっすぐ尚州に向かった。郭再祐は、すでに放棄されていた政府の倉庫から、彼の部隊の補給物資を得たが、これを受けて慶尚道の巡察使金睟は郭再祐を謀叛人とみなし、解散を命じた。 将軍が他の地主にも支援を求めており、王に直接の訴えを送っているような時であったが、その長官は、すでに日本軍との間でかなりの混乱が始まっているにも関わらず、郭再祐を討つための軍隊を派遣してきた。しかしながら、首都から役人が到着して慶尚道で兵を集め始めたとき、この役人が郭再祐の近くに住んでいて郭再祐の事を実際に知っていたので、この役人が郭再祐を長官から救った郭再祐は洛東江と南江にある高い葦原の中でゲリラ戦を展開した。 陸上ではこうした戦術が行われ、海上では李舜臣の水軍が守っていたため、日本軍は全羅道には容易に入れなかったといわれる。
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