近衛・二条の相論
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/11 02:02 UTC 版)
これを聞いた近衛信輔は、前官(前職大臣)の状態で関白となることを嫌い、在任わずか半年の二条昭実に関白を譲るように迫った。信輔は「近衛家では前官の関白の例はない」と主張して、左大臣を秀吉に譲る前に現職の大臣として関白に就任したい旨を正親町天皇に奏上した。これに対して、昭実は「二条家では初めて任命された関白が1年以内に辞めた例はない」と主張して信輔の理不尽な要求を退けるように訴えた。 天正13年の5月から6月にかけて、当時相論で行われていた「三問三答」と呼ばれる手続きに従い、信輔は4度(本来は3度であるが補足として4度目の意見書を出した)、昭実は3度意見書を提出して、互いに自己の主張の正当性と相手の主張の誤りを述べた。そして、最後には信輔が摂関家筆頭としての近衛家の立場を強調すれば、昭実も正平の一統後の混乱下での二条家による後光厳天皇擁立の功績を挙げるなど、議論は泥沼化の様相を見せ始めた。 これにより、朝廷内部は信輔派と昭実派の二派に分かれたものの、一見暴論でありながらも、予想外の事態で左大臣を失うことになるかもしれない信輔への同情は意外に強く、決着のつく見通しは立たなかった。
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