路松多の乱
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/18 19:05 UTC 版)
黄石にいた屠各の路松多が、新平と扶風で挙兵した。路松多は数1000人を集めて、晋王司馬保に帰順した。司馬保は楊曼を雍州刺史に、王連を扶風郡太守に任じ、陳倉を守らせた。張顗を新平郡太守に、周庸を安定郡太守に任じ、陰密を守らせた。路松多が草壁に拠ると、秦隴の氐・羌の多くが、路松多に呼応した。 劉曜は車騎将軍劉雅と、平西将軍劉厚に命じて、陳倉の楊曼を攻撃した。だが、20日経っても趙軍は勝てなかったので、劉曜は自ら中外の精鋭を率いて、攻撃に参加した。劉曜が雍城に入ると、太史令弁広明は劉曜へ「昨夜、妖星が月を犯しました。これ以上進軍するのは良くありません」と進言し、これを受けて劉曜は軍を留めた。劉曜は劉雅らに命じ、包囲を解いて陣の守りを固め、本隊の到着を待つように指示した。 この時期、地震があり、長安が最も被害を受けた。 320年1月、劉曜は雍城を出発し、陳倉を攻めた。楊曼と王連は「間諜の報告によると、五牛旗が立ち、胡主(劉曜)が自ら攻めてきたらしい。事実であれば、正面からぶつかるべきではないが、兵糧はすでに少なく長くは持たぬであろう。もし城下に劉曜軍が来て100日でも包囲されたら、刃を交えることなく我らは自滅する。となれば、全兵を持って突撃を掛けるしか選択肢はない。もし勝ったならば、関中の軍勢は檄文を待たずに馳せ参じるだろう。負ければ命は無いであろうが、遅かれ早かれ人は死ぬものだ。それは致し方ないことだ」と言った。楊曼らは、全軍で城を背にして陣を布いた。劉曜はこれを撃破し、王連は殺され、楊曼は南氐に逃走した。劉曜は続けざまに草壁に進攻し、これを陥落させた。路松多は隴城へ逃げた。劉曜はさらに安定を陥落させると、司馬保は恐れて桑城に退いた。氐・羌は、みな司馬保に従い、桑城に移った。劉曜は軍を引いて長安に戻ると、劉雅を大司徒に任じた。
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