赤埴源蔵、徳利の別れ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/10 04:50 UTC 版)
赤埴源蔵は討ち入り直前にこれまで散々迷惑をかけた兄に今生の別れを告げようと兄の家を訪れた。しかし兄は留守であった。義姉もどうせ金の無心にでも来たのだろうと仮病をつかって出てこない。 やむなく源蔵は兄の羽織を下女に出してもらって、これを吊るして兄に見立てて酒をつぎ、「それがし、今日まで兄上にご迷惑おかけしてきましたが、このたび遠国へ旅立つこととなりました。もう簡単にはお会いできますまい。ぜひ兄上と姉上にもう一度お会いしたかったが、残念ながら叶いませんでした。これにてお別れ申し上げる」と兄の羽織に対して涙を流しながら酒を酌み交わし、帰って行く。 その後帰宅した兄は下女から源蔵の様子を聞いて、もしや源蔵はと思いを巡らせる。そして12月15日、吉良義央の首をあげて泉岳寺へ進む赤穂浪士の中に弟源蔵の姿があった。 参考記事:仮名手本硯高島
※この「赤埴源蔵、徳利の別れ」の解説は、「忠臣蔵」の解説の一部です。
「赤埴源蔵、徳利の別れ」を含む「忠臣蔵」の記事については、「忠臣蔵」の概要を参照ください。
赤埴源蔵、徳利の別れ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 02:32 UTC 版)
史実では赤埴には兄はおらず弟と妹がいるだけである。史実において赤埴は元禄15年12月12日に妹の夫である田村縫右衛門のもとを訪ねている。その日赤埴が普段より着飾ってた事に関して縫右衛門の父から苦言を呈されたが、赤埴は苦言に感謝の意を述べ、一両日中に遠方に参るためあいさつに来た旨を述べた。そして縫右衛門と杯を交わして別れている。
※この「赤埴源蔵、徳利の別れ」の解説は、「赤穂事件」の解説の一部です。
「赤埴源蔵、徳利の別れ」を含む「赤穂事件」の記事については、「赤穂事件」の概要を参照ください。
- 赤埴源蔵、徳利の別れのページへのリンク