象潟開発
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/13 01:00 UTC 版)
松尾芭蕉が『奥の細道』でも訪れた「遠浅の海に小島が浮かぶ」九十九島・八十八潟の景勝地・本荘藩領の象潟は、前述の鳥海大地震(象潟地震)により隆起し、「広々とした陸地に小山が点在する」風景となっていた。それまでは象潟を景勝地として大事にし、島守という役人を置く程度であったが、本荘藩は未開拓の広大な平原が出現したと逆転の発想をし好機と捉えた。資金を集めた藩は地震より数年後から、干拓農地化事業に着手する。 当初は小山(元・島)を全て潰し、その残土や刈り出した松の木を使って広大な農地を開発する予定であったが、地元の名刹・蚶満寺住職の覚林が景勝地の開拓に反対運動を始めた。藩が自分の主張を受け入れないとみた覚林は京に赴き、閑院宮家を動かし、蚶満寺を祈祷所としてもらい、朝廷の権威を背景に反対運動を展開した。これにより藩は、蚶満寺や覚林に公然と手出しができなくなった。 新田開発を進めたい藩は、江戸に出ていた覚林を捕縛、僧侶ではなく俗名勘助という名目で獄中の人とし、覚林は獄死した。 これにより藩の開拓事業は進行するが、小山の主だったものは残された。覚林の祟りを恐れたとも、単に金銭や手間上の都合とも言われているが、とにかく今日の「田園風景の中に島のように小山が点在する」名勝・象潟が残った。
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