謝玄の逆襲
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/11 14:47 UTC 版)
同月、謝玄は3万の兵を率いて広陵より三阿救援に向かうと、白馬塘まで進軍した。ここで何謙を派遣し、まず三阿の包囲を解かせた。倶難・彭超らは配下の都顔に騎兵を与えて謝玄を攻撃したが、謝玄は塘西において都顔軍を撃ち破り、その首級を挙げた。その後、自ら三阿まで軍を進めると、倶難・彭超らと交戦となったが、再びこれを破って盱眙まで後退させた。 6月、軍を石梁まで進めると、田洛に兵5万を与えて盱眙を攻撃させて倶難・彭超をまたも撃破し、その軍を淮陰まで後退させた。また、何謙・督護諸葛侃・参軍劉牢之・単父県令李都らに水軍を与えて上流へと向かわせ、その夜には淮水に掛かる浮橋を焼き払い、その輸送船を沈めた。自らもまた倶難らを攻撃してこれを破り、その将軍邵保を討ち取ると共に、敵軍を淮北まで後退させた。さらに謝玄は何謙・戴逯・田洛と共にこれを追撃し、君川で追いつくとまたも大勝を挙げ、遂に倶難・彭超は全面撤退して北へ逃走した。これにより彭城・下邳などの諸城も守りを解くことができた。 詔により謝玄の下に殿中将軍が派遣され、その奮戦を慰労した。また、謝玄は冠軍将軍に昇進した上で、徐州刺史を加えられた。その後、広陵へ帰還すると再び詔が下り、今回の功績により東興県侯に封じられた。
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