謝安の治世
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 08:37 UTC 版)
桓温の死後、政権を握ったのは謝安であった。この謝安は王導の再来とも言われるほど寛容な政策と巧みな政治バランスによる政権運営をこころがけた。桓温没後の桓氏に対しては桓豁と桓沖ら一族に荊州の軍権を与えることで内乱を避けた。一方で、北府の総帥には一族の謝玄を登用して政軍のバランスを保つという老練な対応をとった。 この頃、華北は376年に前秦の苻堅により統一され、東晋では前秦の南下が脅威となっていた。383年には苻堅が親征し、前秦の公称100万とも112万とも称される大軍の攻撃を受ける。しかし謝安により登用された謝玄・劉牢之・何謙ら勇将の奮戦もあり、数で圧倒的に劣った東晋軍は前秦軍を撃退した(淝水の戦い)。 この勝利により、謝安は以後も東晋を運営していく。しかし孝武帝が成長し、またその弟の司馬道子が次第に謝安を政敵として対立したため、晩年の謝安政権は思うように運営がままならなかった。そして385年に謝安は死去した。
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