諒闇心喪説
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/23 02:30 UTC 版)
諒闇心喪とは、天子の父母が死去した際、天子は喪に服するが、葬送した後には喪に服するのを止めて、心だけの喪に服することを指す。本来的な儒教の制度においては、父母の喪には三年間服するのが規則であるが、特に皇帝の死の場合には皇太子だけでなく全ての官僚にも三年喪が要求された。ただし、これでは政務が滞ってしまうため、前漢の文帝によって喪の期間が短縮され、その後は実質的には短喪が行われていた。 西晋の頃、武帝によって三年喪を実際に実施すべきとする議論が提起され、これ以後再度三年喪に関する議論が行われるようになった。杜預は、喪の期間そのものを短くする文帝の方法は古制に則っていないと批判し、経書由来の正しい制度に従うべきであると主張した。そして、『左伝』の記述や『尚書』の新たな解釈に基づいて、諒闇心喪説を唱えた。これにより、実質的な服喪は葬儀までとし皇太子や官僚がすぐに政務も取れるようにしつつも、「心の喪」という形で古来の三年喪を継続し、古典に基づきながら調和の取れた解釈を実現した。 諒闇心喪の制度は、中国の南北朝で実際に用いられたほか、吐谷渾や日本の醍醐天皇・冷泉天皇のもとでも用いられた。
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