西日本への波及
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/25 08:08 UTC 版)
玄界灘沿岸以外の稲作社会は、前期になっておこるあらたな稲作集団の移住によって成立する。 環濠集落を成立させるほどに発展を遂げた玄界灘沿岸は、人口増による可耕地の拡大が早急に迫られていたと考えられる。フロンチィアたちは九州を南下せずに東へ東へと進む。前期水稲農耕の伝播である。 遠賀川人が移住先で営んだ集落の土器組成は基本的に遠賀川式土器単純で在来者となんらかのかたちでかかわれば突帯文土器と共伴する。そのかかわりかたの違いは、突帯文土器と遠賀川式土器の組成比で判断できる。 田村や中寺・州尾のように1:1の遺跡もあれば、数点の突帯文土器が混じる程度の遺跡までさまざまである。しかし遠賀川人がかかわった在来者はほとんどの場合、早期に稲作を経験していた模様で、それは共伴する突帯文土器がすべて前期突帯文土器であることからもわかる。 早期以来の経験が素地にあったことが前期水稲農耕の急激な普及を容易にした原因の一つなのである。
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