西方寺_(愛知県幸田町)とは? わかりやすく解説

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西方寺 (愛知県幸田町)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/08/05 05:16 UTC 版)

西方寺(さいほうじ)は、愛知県額田郡幸田町大字久保田 開章 かいしょうに所在する浄土宗西山深草派寺院。山号は紫雲山(しうんざん)。徳川家康および松平氏ゆかりの寺として知られ[1][2]戦国時代に松平氏以外の国人領主の支配地域内で、深溝城主・三河大庭氏の勢力圏との境界に建立された[3]

概要

紫雲山西方寺は、1449年宝徳元年)に岩津城主・松平信光の従兄で浄土宗僧侶の教然良頓が開基した寺院である[4]。教然良頓は松平氏2代・松平泰親の長子で、俗名を松平泰氏と称した[5]。創建地は中世坂崎久保田村で[2] 開章 かいしょうと命名された[1]。教然良頓がこの地に西方寺を創建したのは、菱池の北に紫雲たなびく風景を気に入ったためと伝わり、山号の由来にもなっている[1]。また当地は松平氏以外の国人領主の支配地域内にあり、深溝城主・三河大庭氏の勢力圏との境界に位置した[3]

歴史

創建から戦国時代まで

1449年宝徳元年)、清海寺住持だった教然良頓が従兄の松平信光の支援を受け創建。教然良頓はこの地を隠居所とし、後に岩津妙心寺も開山した[6][3]1464年寛正5年)、教然良頓が西方寺で没し、遺骨は妙心寺に埋葬された(西方寺にも墓所あり)[6]1518年永正15年)には松平氏6代・松平信忠が寺領26貫文を寄進[4]

江戸時代以降

1603年慶長8年)、徳川家康により朱印地26石を安堵され[4]久保田村とは別に寺領 開章 かいしょう村として独立した[4]。また、もともとは妙心寺本寺であったが[3]、三河三檀林の一つとなった妙心寺の末寺となり、宗教法人法施行までこの関係が続いた[2]

伽藍と文化財

建造物

  • 本堂 - 内部に徳川家の葵紋である家紋が使用されている[1]
  • 墓地 - 最古の墓石は1464年(寛正5年)の銘があり、教然の墓と伝わる[4]

文化財

文化財
名称 種別 年代 備考
木造阿弥陀如来坐像 彫刻 鎌倉時代 本尊幸田町指定文化財
木彫彩色当麻曼荼羅 きぼりさいしきたいままんだら 工芸品 江戸時代

宗教的特徴

  • 開基の教然良頓は日課として3万遍の念仏を実践し、病中も欠かさなかったと伝わる[6]
  • 中世には浄土宗西山深草派の教学拠点として機能した[2]

脚注

関連項目




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