西岸寺河原仇討
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 03:49 UTC 版)
「西岸寺 (熊本市)」の記事における「西岸寺河原仇討」の解説
この寺付近で「西岸寺河原仇討」と呼ばれる敵討事件があったという来歴でも知られる。敵討は寛永17年(1640年)10月9日に行われたとされ、講談などの作品にもなった。概要は次のようなものである。 稲葉家江戸屋敷の朋輩・岩井善右衛門と赤松久之允は共に浪人した。早く出世した方が他方を取り立てると約し、岩井が福岡へ、赤松が浜松へと散る。その後、剣の達人・岩井は福岡で仕官し、浜松で芽の出ない赤松は、一子・赤松源次郎の養育を岩井に頼む。岩井も、源次郎をわが子・岩井半之允同様に育てる。 源次郎は小姓として召し出されるが、城中で口論し他人に試合を挑もうとしたため、不届きと暇を出され、岩井善右衛門からも叱責される。源次郎は逆恨みして善右衛門を殺害し逐電。善右衛門の長子・岩井半之允が仇討ちに出る。 半之允は江戸でかつて下男だった万助と出くわし、万助は助力を誓う。3年経ち、半之允は源次郎の父・赤松久之允がいる浜松に行く。久之允は半之允より源次郎の不始末を聞き自害。その後、浜松の父宛に源次郎より、森山弾正と改名し細川家に仕官したとの書状が届く。仇の所在を知った半之允は、一旦江戸へ出て万助と語らい、まず半之允が肥後熊本へ向かい、万助も後を追うこととなる。 熊本で源次郎を狙う半之允だったが、遠国でもあり零落し、西岸寺の前で行き倒れたところを、内山という侍に殺され刀や金を奪われる。しかし内山の罪も知れ、内山は斬首される。 熊本に着き顛末を知った万助は、半之允の弟・善次郎13歳を連れ、熊本藩に事の次第を申告する。藩では、素性を偽った罪で森山こと源次郎を二百たたきとし、西岸寺河原にて仇討ちの対決をさせる。二百たたきされたばかりの源次郎は善次郎・万助に容易に討たれ、主従は本懐を遂げる。
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