西伯姫昌
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/28 00:33 UTC 版)
詳細は「姫昌 (文王)」を参照 帝辛の暴虐は周の姫昌も例外ではなく、崇侯虎の讒言により羑里に幽閉された。人質として殷に居た伯邑考が釜茹でに遭い、羹にされたのもこの幽閉中のことであったとされる。このことを切っ掛けに、殷を討つことを決意したとされているが、結局生前の放伐は成らなかった。しかしこれについては、姫昌が殷を討たずに世を正そうとしたと解釈され、儒教(儒学)に影響を与えた。 その後、姫昌は領地を献上して赦免され、代わりに西伯(殷の西方面の独立指揮権を持つ)に任じられた。このことから、姫昌は西伯昌とも呼ばれる。 姫昌はその後、北狄の犬戎・密須や、近隣の方国の盂を攻め、遂に晩年に崇侯虎を攻め滅ぼして領国の崇を併合した。しかし姫昌は殷に匹敵する国力を持ち合わせながらも、殷に従い続けた。また、姫昌に会いに孤竹の伯夷・叔斉が訪れたとされるが、周に着いた時には既に亡くなっていたという。
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