補給路の破壊
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/03/31 03:00 UTC 版)
1755年に、イギリス軍は北アメリカで積極に軍事行動を展開したが、実を結ばず、この年から翌1756年の冬にかけて、モホーク川からオンタリオ湖に沿って建てられた、砦のうちのいくつかで越冬に入っていた。一番人数が多いのがオスウィーゴ砦で、一連のイギリスの砦の一番端にあり、物資は他の砦からの補給に頼っていた。物資補給に関しては、オナイダ・キャリーの両端にある2つの砦が、大きな役割を負っていた。この2つのうち、モホーク川に面したウィリアムズ砦は、もう一方のブル砦よりも大きかった。ブル砦は、ウィリアムズ砦の数マイル(約3-5キロ)北で、ウッドクリークに面しており、複数の倉庫に矢来を巡らせた程度の規模だった。ここには、ウィリアム・ブルの指揮下にあるシャーリー連隊の兵が少人数駐屯しており、火薬や弾薬を始め、翌年の軍事活動に向けての、軍用品がかなり蓄えられていた。 フランスは、今の勢いを維持することが必要であることをさとり、レリの400人にも及ぶ軍を、この、オスウィーゴ砦の補給線の要である、比較的守りの手薄な2つの砦に派遣した。レリはまずブル砦に進軍することにした。ウィリアム砦の駐屯兵150人に対して、ブル砦は60人だったからである。イギリス軍は哨兵すらも置いていなかった。
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