藤原氏による輔政説
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/04/05 07:02 UTC 版)
藤原氏による輔政を定めた法だとする説で、1969年に田村円澄が唱えた。この説によれば、藤原鎌足を重用した天智天皇は、皇位を皇室が掌握し、皇室と姻戚関係を持つ藤原氏がこれを輔佐するという共同執政=輔政体制を代々永続させるように伝えた。この法は成文・公布されたものではなく、壬申の乱を起こした天武天皇は不改常典に縛られなかったが、天智の娘である持統天皇ら天智の女系子孫が中心になって伝え、守らせた。文武天皇の死によってこの方式での継承が困難になったとき、それまで他言されなかった不改常典を明かし、藤原氏の補佐がない皇族を牽制したとする。田村によれば、後の藤原氏の隆盛はこのときに制度として作られ予定されていた。 この説への批判者は、皇室が自家の継承を委ねるまでに藤原氏に奉仕しなければならないと考えた動機が不明だとする。また、鎌足・不比等の地位を高く見過ぎているとも言う。
※この「藤原氏による輔政説」の解説は、「不改常典」の解説の一部です。
「藤原氏による輔政説」を含む「不改常典」の記事については、「不改常典」の概要を参照ください。
- 藤原氏による輔政説のページへのリンク