薬丸兼慶
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/03/04 04:34 UTC 版)
薬丸 兼慶(やくまる かねよし)は、江戸時代中期の薩摩藩士。剣客。晩年になって活慶と号した。薬丸兼陳の外孫で黒葛原俊宗[2]の三男であり、薬丸兼福の養子となった。
- ^ 「鹿児島県史料集 旧期雑録拾遺 諸氏系図1」参照
- ^ 島津家分流伊集院氏の分流の一族。詳細は薬丸兼福の項参照
- ^ 現在の宮崎県西諸県郡小林市。薩摩藩の郷としては小郷という。(「角川地名辞典 宮崎県」参照)
- ^ 「三州御治世要覧 巻36」によると、新番以下の武士は3代続けて10人扶持の役職につくか、地頭に就任した場合に家格代々小番に昇格できる。薬丸家は兼慶まで地頭就任者がおらず、また兼陳が10人扶持の長崎御使人になったものの、兼福が6人扶持の細工奉行であった上に、10人扶持の兵具奉行を断っているので10人扶持の役職に連続3代就任していない。このため本来の家格は代々新番であったと思われる
- ^ 「職掌紀原」によると、この職は兵具奉行が宝永元年12月に改称したものという。
- ^ 宝暦5年の「嶋津家分限帳」や文化年間の「薩藩政要録」によると、同職は上から9番目の職で物頭の6つ上の職であった。
- ^ 実満の三男は相伝されていたが伊集院家に養子に行っていた。(伊集院俊方)
- ^ 東郷実満の頁を参照。
- ^ なお、「職掌紀原」では正徳2年以降、高150石以下の者に役料100石支給されるようになったとある。また、「薩藩政要録」では高150石以下に役料100石支給するが、新役については90石支給するとある。この事から、元文5年当時の薬丸家が石高150石以下であったことが分かる。なお、同じ日に同僚でモウソウチクを仙厳園に献上した野村勘兵衛良昌も90石もらっている。
- ^ 島津吉貴が藩主の時、即ち享保3年(1718年)から享保6年(1721年)の間
- ^ 抜いた刀は右手に持つものなので、つまり兼慶は抜き身を持った腕の自由を奪ったのである。
- ^ 「三州遺芳」による。ただし、薬丸兼武の「由緒並家傳燕飛解」は燕飛(打廻り)を東郷重位の高弟長谷場伝兵衛(1600年没)が使用したとし、矛盾する。
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