著名人との交流と隠棲
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/19 04:10 UTC 版)
弘治2年には駿河へ下向、11月17日(1556年12月18日)には今川義元主催の詩歌会に参加し、同地に滞在中の三条西実枝・山科言継らと同席している。同年から翌年にかけて、武田信玄に招かれて甲斐に赴き、恵林寺住職となって滞在。正親町天皇からの信頼も篤く、勅命により曲直瀬道三の著『啓迪集』の序文を寄せている。この他にも織田信長をはじめ、五山の碩学として多くの公家・武士らと交流したが、自身はあまり世に出るのを望まず、住職として妙智院で隠棲し、天竜寺の護持に務めた。また、詩文にすぐれ『謙斎詩集』『城西聯句』『漢倭聯句』など、五山文学史に多くの作品を残している。 天正7年(1579年)6月末日に入寂。享年79。
※この「著名人との交流と隠棲」の解説は、「策彦周良」の解説の一部です。
「著名人との交流と隠棲」を含む「策彦周良」の記事については、「策彦周良」の概要を参照ください。
- 著名人との交流と隠棲のページへのリンク