菅原道真の暮らし
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/04/30 07:18 UTC 版)
道真は、この地での哀れな暮らしぶりを次のような詩を詠み嘆いている。 都府樓纔看瓦色 觀音寺只聽鐘聲(都府楼は纔かに瓦色を看 観音寺は只鐘声を聞く) (都府楼は大宰府政庁、観音寺は観世音寺、鐘は観世音寺にある梵鐘のこと。) これは白居易が江州に左遷させられたときに詠んだ七言律詩の一節 遺愛寺鐘欹枕聽 香爐峯雪撥簾看(遺愛寺の鐘は枕をそばたてて聞き 香爐峯の雪は簾をかかげて看る) を準えたもので、枕草子でも同様な逸話が出てくる。 隈麿と紅姫 道真は大宰府に下る時に、幼子2人、隈麿と紅姫を連れて行くことを許されて伴ってきた、とされている。榎寺での生活は不自由な苦しいものであったが、愛らしい幼児2人が、唯一の心の支えだった。あまりにも酷い暮らしの中で道真自身、脚気や皮膚病に悩み、胃腸もこわすという状態だったが、幼い隈麿は、大宰府に着いた翌年病に罹り急逝した。
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