草人と離婚後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/16 07:43 UTC 版)
帰国した草人は日本で愛人を作り、1930年に浦路とは事実上離婚、浦路は平八とアメリカに残り、Urajiという屋号で化粧品セールスをしながら、Mrs.Sojinの芸名でエキストラをして生計を立てた。生活は苦しく、田村俊子が訪ねたときは薄汚く狭い長屋に暮らしていたという。平八は文芸誌の編集や詩作をしていたが、肺病を患っていた。 1936年、養女に出した娘の蕗子から、竹三郎(三男)の肺病の知らせが届き、以来隔月で1000円を送金する。蕗子はその金で竹三郎を入院させ、掃除婦として働きながら看病した。 戦争が始まり、1942年に日系人の強制収容所に収容される。平八は肺病で療養中であったため、収容を免れる。1946年にロスに戻ったあと、白人の家に住み込みで働き、その後知人のガレージの2階を借りて一人暮らしを始めた。1947年、脳溢血で死去。
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