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若林三由

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/03/14 13:05 UTC 版)

 
若林 三由
時代 江戸時代前期
生誕 慶長15年(1610年[1]
死没 天和3年10月20日1683年12月8日[1]
別名 正直、長十郎、六郎左衛門[1]
諡号 養浩[1]
墓所 西方寺
幕府 江戸幕府 佐渡奉行[1]
主君 徳川家光家綱綱吉
父母 父:長繁由、母:中山家範の娘[2][1]
養父:若林直則[1]
若林直則の娘[1]
直方、直正、長権八郎、長信好、新見正式の妻、杉原包長の妻[1]
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若林 三由(わかばやし みつよし)は、江戸時代前期の武士旗本佐渡奉行

生涯

水戸藩士・長繁由の子、母は同藩御附家老中山信吉の妹という[2][1]。1,100石の旗本若林直則の娘婿となる。寛永3年(1626年)直則が死去すると家督を継承、相模国内の所領のうち直則の実子・三平に半分を割いて550石を領した。寛永10年(1633年武蔵国都筑郡内に200石を加増。小姓組大番を歴任、のち組頭に進む。寛永16年(1639年江戸城筋違橋門普請奉行を務める。寛文2年(1662年)佐渡奉行に任じられ、常陸国茨城郡に300石を加増された。寛文10年(1670年小普請に移る[1]

天和3年(1683年)74歳で死去。家督は長男の直方が継ぎ、次男直正は別家を立て、四男信好は三由の実家・長家の家名を称した[1]

儒学を好んで『孟子』『太極図説』に通じ、号の養浩は『孟子』公孫丑・上「養浩然之気」から引いている。また膂力に優れ強弓をよくした。私生活では風流を好み、読書造園詩吟を楽しんだという[3]

脚注

  1. ^ a b c d e f g h i j k l 『寛政重修諸家譜』, p. 238.
  2. ^ a b 『飯能郷土史』, p. 543.
  3. ^ 『港北区史』, pp. 666–667.

出典




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