若いスルターンと大臣たち
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/19 06:18 UTC 版)
「ムハンマド4世 (ナスル朝)」の記事における「若いスルターンと大臣たち」の解説
即位時のムハンマド4世は若年であったために宮廷の大臣たちと祖母の影響下に置かれた。当初はアブル=ハサン・ブン・マスウードが引き続きワズィールを務めたものの、ムハンマド4世の即位から1か月後にイスマーイール1世の暗殺事件の際に負った傷による感染症が原因となって死去した。そしてアル=グザート・アル=ムジャーヒディーンの司令官の地位を維持したウスマーンによって推挙された、ワキール(英語版)のムハンマド・ブン・アル=マフルーク(英語版)(以下、イブン・マフルーク)がワズィールの後任となった。ウスマーンは自身の軍事面の指揮権に加えてワズィールとの関係を築いたことで若いスルターンの宮廷において影響力のある人物となった。ムハンマド4世の後見はスルターンの家庭教師であるアブー・ヌアイム・リドワーン(英語版)と祖母のファーティマに委ねられており、両者も政権運営に参画していた。 ウスマーンは程なくして独裁的に振る舞い、他の大臣たちを遠ざけるようになった。そして大臣たちの権限を奪い、アル=グザート・アル=ムジャーヒディーンへの報酬のためにほぼ独占的に国家の財源を割り当てた。このような状況を受けて、イブン・マフルークは野心を抱くウスマーンが権力を掌握するためにクーデターを計画しているのではないかと恐れるようになった。やがて明白となった両者の対立状態は、ウスマーンの部隊がグラナダを占領したことでイブン・マフルークとその配下の者たちがアルハンブラ宮殿への籠城を余儀なくされた1326年12月に最高潮に達した。しかし、イブン・マフルークはこの間にラッフ氏族の出身でウスマーンの義理の息子であるヤフヤー・ブン・ウマル・ブン・ラッフを対抗のアル=グザート・アル=ムジャーヒディーンの司令官に指名した。結果としてアル=グザート・アル=ムジャーヒディーンの部隊はウスマーンを見捨て、ウスマーンの下にはわずかに1,000人の従者と自分の家族だけが残された。
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